2月3日 <初代 坂田藤十郎、和事を演じる(1678年=延宝6)>

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1678年(延宝6)の今日、初代 坂田藤十郎が大坂荒木座で「夕霧名残正月」の藤屋伊左衛門を演じて大当たりをとり、一躍スターの座にのし上がりました。

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。


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1.解説

 

坂田 藤十郎(さかた とうじゅうろう)は、江戸時代の元禄期の京坂を代表する名優で、写実性にすぐれ、上方歌舞伎の和事芸を確立した…とされています。

 

江戸時代、歌舞伎や浄瑠璃は町人生活のなかにとけ込み、支持されて発展しました。歌舞伎は、江戸時代初期に風俗取締の観点から女歌舞伎(おんなかぶき)、ついで若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)が禁止され、男女すべての役柄を男優だけが演じる野郎歌舞伎(やろうかぶき)だけが元禄時代以降には行われました。この流れが、歌舞(かぶ)から演劇(えんげき)への転換ともなり、歌舞伎と文学(脚本)との関わりも始まるのです。

常設の芝居小屋も、京都に3座、大坂に4座、江戸に4座おかれました。

江戸では荒事(あらごと)と呼ばれる勇壮な演技で名をはせた市川團十郎が人気で、上方では今回ご紹介する坂田藤十郎や女形(おやま)の代表とされる芳沢あやめが活躍しました。

 

さて、その坂田藤十郎は、京の座元だった坂田市左衛門の子で、初舞台は1676年(延宝4)11月、29歳の時に京都万太夫座でデビューしました。そして1678年(延宝6)「夕霧名残正月」で藤屋伊左衛門を演じ、トップスターの仲間入りをしました。この伊左衛門役は生涯に18回演じるほどの当たり役でした。

 

その後、近松門左衛門と提携した1693年(元禄6)頃からが最盛期で「傾城仏の原」「けいせい壬生大念仏」「仏母摩耶山開帳」などを演じました。やつし事、濡れ事、口説事、傾城買いなどの演技は、江戸の初代市川團十郎の「荒事」に対し「和事」と呼ばれ、上方歌舞伎を代表する芸風を作り上げました。

 

この坂田藤十郎は以降三代目まで続き、1774年(安永2)に三代目が亡くなって以降、襲名するものがなく、その系譜が途絶えていました。2005年(平成17)に、このビッグネームを当時の三代目中村鴈治郎が継ぎ、四代目坂田藤十郎を襲名しました。この四代目もまた、上方和事の第一人者であり、その華やかで艶のある芸風は見る者を陶然とさせるそうです。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。
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