2月9日 <前蔵相井上準之助が血盟団員に襲われる(1932年=昭和7)>

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1932年(昭和7)のこの日、前蔵相の井上準之助が失政を問われて血盟団員の小沼正に襲われて亡くなりました。いわゆる血盟団事件です。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

日本国内では1930年代に入ると、ロンドン軍縮問題、満蒙問題の切迫、農村の疲弊など「内外の危機」に触発されて革新の気運が高まり、軍部の青年将校や民間の国家主義団体による急進的な国家改造運動がしだいに活発となりました。彼らは、元老・政党・財閥などの支配層が、国家の危機と国民の窮状とをよそに私利私欲・党利党略にふけっているものとして、これらの支配者たちを実力行動によって打倒しようと計画するようになりました。

 

そして、1931年(昭和6)3月には、急進的な国家改造をめざす陸軍の秘密結社桜会(さくらかい)の将校と民間の国家主義活動家たちとが、無産政党をも動員して、政党内閣を打倒し軍部政権の樹立をはかろうと、クーデタを計画する事件(三月事件)が起こりました。

 

同年9月18日に満州事変が勃発すると、国民の軍部への期待が高まるなかで、国家主義革新の動きがいっそう激しくなり、同年10月には、また同様のクーデタ計画(十月事件)が起こりました。

 

両事件はともに未遂に終わりましたが、十月事件は満州事変の不拡大方針をとる第2次若槻内閣を退陣に追い込む、大きな要因になったと考えられています。

 

こうした時代背景のなかで、起こったのが政党政治家や財界の指導者に対する襲撃も起こり、その代表的なものが本日ご紹介した血盟団事件です。

 

血盟団は、日蓮宗の僧侶である井上日召(いのうえにっしょう)を指導者とし、<一人一殺>を唱えたテロリズムの集団です。井上は以下の様な思想に基づいて行動を推進しました。

 

「政界腐敗の根源は財閥が政党を操縦し政党も亦財閥の走狗たるに甘んじ共に私利私欲のみに没頭国家の前途を誤り国政を紊りしによるものなり」

(1933年(昭和8)2月2日付神戸新聞)

 

実際に多くの政府首脳・政党幹部・財界指導者が狙われていたようで、1932年(昭和7)2月9日の井上準之助、同年3月5日には三井合名会社理事長の団琢磨が襲われて命を落としました。

 

ちなみに、井上準之助を襲った理由は以下の通りです。

「現下の農村の疲弊は井上が大蔵大臣たりし当時の失政によるもので之が救済には先ず井上を倒す必要ありと考えたに依る」

(1933年(昭和8)2月2日付神戸新聞)

 

星子毅が著した上申書に、血盟団の主張が以下の様にまとまっています。

現在の経済社会は行き詰まっている。……然らば何故に行き詰まったか。今までの政治は単に支配階級、とくに資本家たちの利益のみを考えて、全体の利益といふことを考えなかったからである。……政党否認の声、財閥否定の叫びは全日本大衆の声である。……疲弊のどん底に落ちている農村を救へ! 飢餓と貧困の前に投出されている我等の同胞を救へ!

(星子毅「上申書」より引用)

 

 

なんだ…今も昔も大して変わっとらんやんけ…と思ってしまいました。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。
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