3月10日 <米軍による無差別殺人、真夜中に東京大空襲(1945年=昭和20)>

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1945年(昭和20)のこの日、真夜中に米軍による東京大空襲があり、死傷者12万人がでました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1944年(昭和19)6月16日、北九州が20機のB29で空襲されて以来、連日のように繰り返される空襲は、一般国民の生活を危険なものにしていきました、

 

米軍の大型爆撃機B29による本土空襲は、マリアナに基地が出来た1944年(昭和19)秋から本格化しました。最初に、少数の偵察機が航空写真を撮るために侵入し、次いで軍需施設や航空機生産工場、輸送機関などを目標とする高高度精密爆撃が行われました。

 

1945年(昭和20)になると、こうした計画的な戦略爆撃とともに、市街地に対する無差別じゅうたん爆撃が広がっていきました。この空襲作戦に先立ち、米軍は精巧な日本家屋を作り(畳はハワイから取り寄せたそうです)、焼夷弾の新開発を行ったのです。

 

これらの空襲のうち、東京に対する大規模な爆撃のことを東京大空襲と言います。 1945年(昭和20)年3月10日、4月13~15日、5月24~25日の3回は特に大規模で、前後102回の空襲を東京は受けています。

 

その中でも、1945(昭和20)年の今日行われた空襲は激しく、300機以上の米軍のB29が分散して低空から本所・深川・下谷・浅草・城東の下町に焼夷弾の波状じゅうたん爆撃を行い、午前0時8分~2時37分までのわずか2時間半のうちに38万発、1783トンもの爆弾(焼夷弾)を投下しました。

 

この無差別爆撃により、東京の4割が一夜に消失し、死傷者12万人、焼失家屋26万戸、被災者100万人もの被害が出ました。墨田区・江東区・台東区の死亡率は広島・長崎の原爆での死亡率に近いものだった、とされています。

 

同様の爆撃で、4月13日夜には豊島・淀橋・小石川・四谷・麹町・赤坂・渋谷・牛込・荒川・滝野川地区が焼かれ、5月24日には残っていた山手方面の大半が焼失したのです。

 

こうした空襲により、東京は関東大震災にくらべ焼失家屋と被災人口は2倍、死者で1,5倍の被害を受けて、文字通り焼け野原となりました。

 

空襲は東京に限らず全国各地に及びました。206都市のうち、98市が空襲や艦砲射撃で被爆しました。こうした攻撃により、死傷者は66.5万人に達し、損失金額は国富の34%、653億円に達したとされます。この金額は終戦時の公定価格ベースですので、現在の貨幣価値に換算すると空恐ろしい金額になることは間違いありません。焼失家屋は全国住宅の20%にあたる230万戸で、被災者は1,000万人を越えていました。

 

米国の日本本土空襲の目的は、都市の無差別空襲により、一般の市民生活に徹底的な打撃を与え、国民の戦意を喪失させることにありました。 政府・軍部はなお「聖戦完遂」を叫び、マスコミは「必勝の信念」を説きましたが、国民は米国の思惑通り次第に失われ、厭戦気分が濃厚に漂っていったのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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