3月27日 <松尾芭蕉、奥の細道への旅立ち(1689年=元禄2)>

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1689年(元禄2)のこの日、松尾芭蕉は「奥の細道」へ旅立ちました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

46歳になった松尾芭蕉は、1689年(元禄2)3月27日の明け方、深川六間堀の芭蕉庵を出て、船で隅田川を上り、見送ってくれた親しい者とも千住で別れを告げました。従うのは門人の河合曽良のみです。

 

肩に背負う荷物は浴衣、雨具。筆墨などわずかで、まことに質素な旅立ちでした。この出発に際してこの様な句を詠んでいます。

 

行(ゆく)春や鳥啼(なき)魚の目は泪(なみだ)

(「奥の細道」の序から引用)

 

この様に詠った「奥の細道」への旅立ちでした。

 

この陸奥〜出羽〜北陸の旅は、芭蕉の50年の生涯のなかで最も大きな旅行でした。

 

月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅にして旅を栖(すみか)とす。古人(こじん)も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣をはらひて、やや年も暮(くれ)、春立てる霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸(きゅう)すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、

草の戸も 住替(すみかわる)る代(よ)ぞ ひなの家

面八句(おもてはちく)を庵の柱にかけ置く。

(「奥の細道」の序から引用)

 

この有名な書き出しで始まる「奥の細道」は、芭蕉の紀行文のなかでも最も優れたものとされていて、何回も文を改め、句を作り変え、練りに練って完成させたのは5年後の1694年(元禄7)のことでした。

 

 

この芭蕉の

日光→那須→白河→郡山→福島→仙台→松島→石巻→平泉→鳴子→尾花沢→新庄→酒田→象潟→新潟→出雲崎→柏崎→直江津→高田→高岡→金沢→小松→吉崎→福井→敦賀→長浜

といったルートで巡った旅は、物見遊山ではなく、歌枕をたずね、歴史の跡を追い、古人の心にひたり、そうした心とともに泣き、ともに悲しむといった風情があります。

 

そうして8月下旬に大垣に着いて、この600里(約2,400km)に及ぶ大旅行が終わるのです。

 

最後に詠まれた句は

  蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ 行(ゆ)く秋ぞ

(「奥の細道」の序から引用)

でした。

 

 

 

小生も、以前、象潟に商品の営業で出向きまして、芭蕉の足跡に触れて一句の和歌を詠みました。全くもって情けないパクリだったのですが…

  象潟(きさかた)の 光のどけき 春の日に 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ

 

小生がパクった元歌は明日の記事でご報告申し上げます。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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