3月6日 <源為朝、日本初となる切腹自殺(1177年=治承元)>

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1177年(治承元)のこの日、源為朝が、伊豆大島で切腹自殺しました。日本で切腹により自殺したのは、この源為朝が第一号です。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1156年(保元元)、鳥羽法皇が崩御すると、朝廷の実権を巡って対立していた崇徳上皇と後白河天皇の衝突は避けられない情勢になりました。同年7月11日、後白河天皇は、近臣の藤原通憲を参謀にして、平清盛や源義朝らの武士を動員し、崇徳上皇側に先制攻撃を仕掛けて、これを打ち破りました。これを保元の乱と言います。上皇側の崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長は負傷が元で死亡し、源為義は死刑(斬首)となりました。この為義の死刑を執行したのは自分の長子の義朝でした。

 

今日ご紹介している出来事の主人公、為朝はその源為義の八男です。稀代の弓の名手で、それも強弓を引いたそうです。保元の乱では、平清盛の家臣伊藤景綱の子供忠直に矢を射たところ、矢は忠直を射抜き、後ろに居た忠清の鎧の袖に突き刺さったとか。

 

その保元の乱で、為義・為朝が加わった崇徳上皇の軍は破れたので、為朝は逃亡しました。ところが、近江国の坂田辺りで病気療養の湯治中、8月26日に源重貞によって捕らえられてしまいます。その身柄は翌日京都に護送され検非違使の源季実に引き渡されます。後白河法皇もこっそり為朝をご覧になられたそうです。

 

親である為義は斬首刑でしたが、為朝はその武芸の才によって刑を減ぜられ大島に流刑とされます。

 

その流された大島でも何と言いますか……大暴れするのです。近隣の島々を従えて租賦を奪い、また島民に乱暴狼藉を働いた、ということです。そこで、伊豆介・工藤(狩野)茂光が討伐に出向くのです。さすがの為朝も観念して、切腹して自殺しました。源為朝は日本初の切腹男だそうです。

 

為朝には、もう一つ面白い伝説があります。それは

「為朝はこの時に自殺せずに大島を脱出して琉球にわたり、婦を娶って舜天王(しゅんてんおう)を生んだ。」

というものです。源為朝の子と称する舜天王は、1187年(文治3)に最初の王統を確立しました。その他にも色々と伝説があるらしく、Wikipediaに詳しく書いてあります。リンクを貼り付けておきますね。

Wikipedia「源為朝」

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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