3月8日 <ニコライ堂の成聖式(開堂式)挙行(1891年=明治24)>

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1891年(明治24)のこの日、東京・神田駿河台で竣工したハリストス正教会の教会堂(ニコライ堂)の開堂式が挙行されました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

異国情緒溢れる佇まいを見せ、天気の良い日であればスケッチをする人や散歩をする人、ミサ(聖体礼儀)が行われる時は信徒が訪れるニコライ堂が神田の駿河台にあります。東京の名勝の一つに挙げても良いだろうな、と小生は思っています。

 

ニコライ堂というのは通称で、正式名称は日本ハリストス正教会復活大聖堂(東京復活大聖堂)で、この通称は、日本におけるギリシア正教の最初の宣教師である大主教ニコライ・カサートキンの名にちなんだものです。

ニコライ堂の建築の原設計はロシアの建築家ミハイル・シチュールポフが担当し、お雇い外国人として来日し民間の建築設計事務所を開き、帝国ホテルなどの建築を手がけたジョサイア・コンドルが修正させて完成させたものです。シチュールポフの原設計に対してコンドルがどの程度修正したかについては未だ不明だそうです。

建築工事は長郷泰輔が請負い、施行は清水組(現・清水建設)が担当し、1884年(明治17)に起工され、7年後の1891年(明治24)2月に竣工した後、同年のこの日に成聖式が行われ、約3,000人が来会しました(この、耳慣れない成聖式という言葉ですが、この場合は完成した建築物と神とのつながりを回復し、聖なるものと成す為の儀式です)。

 

 

出来た教会は、平面図ではギリシア十字形をなすビザンティン様式で、八角形の中央ドームを持ち、他にロシア製の鐘がある鐘楼一基を備えていました。

 

ニコライ堂は、明治期の日本で、当時信者4万人と言われたギリシア正教の総本山として重要な役割を果たしていましたが、1923年(大正11)9月の関東大震災で、高い鐘楼が中央ドームに倒れかかって建物全体が大破してしまいました。この時、大聖堂内部や木造部分、聖堂附属の図書館や学校も火災によって大きな被害を受けました。

<関東大震災後のニコライ堂>

 

日本正教会は、震災後翌月にはニコライ堂の再建を決定しましたが、財政的な理由から、実際に聖堂が再建されたのは被災後6年後の1929年(昭和4)でした。ニコライ堂の再建に際し、設計は岡田信一郎が担当し、構造の変更・補強と修復が行われました。

Wikipediaに岡田信一郎が行った変更内容について箇条書きになっているので、以下に引用します。

変更点は

  • ドームをドラム(穹窿胴)付きの高いものとする
  • 四方屋根をマンサード形式で屋根窓のついたものとする
  • 鐘楼を低く抑える
  • 正面両脇に八角柱で補強を施す
  • 窓サッシの更新
  • 補強を兼ねて内部に3個所中二階を設け、中二階のないイコノスタシス上部には補強アーチを加える

(Wikipedia「ニコライ堂」から引用)

そうして再建されたニコライ堂の外観は以下の画像をご覧下さい。屋根の形や鐘楼は随分と変わりましたねぇ。

 

1929年(昭和4)当時の写真では、その景観を妨げるような高い建物もありませんでした。参考に、現代の写真も貼付しておきますね。

<現在のニコライ堂>

<現在のニコライ堂、東側から撮影>

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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