1716年(亨保元)のこの日、江戸幕府道中奉行の管轄下にあった主要街道(五街道)の正式名称を布達しました。
これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
古代の律令制下では、全国の地方区分を五畿七道としていました。それは五畿(五畿内)として山背(やましろ。山城)・大倭(やまと。大和)・河内(かわち)・和泉(いずみ)・摂津(せっつ)と 七道として(西は山陽道・山陰道・南海道・西海道、東は東海道・東山道・北陸道)を定めました。
七道というのは地方区分であり、交通路をも意味していましたが、幕府は七道のうち東国の道中奉行の管轄下においた五街道の呼称を定め、1716年(亨保元)4月15日に布達しました。
五街道とは、東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中のことで、布達には以下の様に書かれていました。
「東山道・山陰道・山陽道、いずれも山の字をせんと訓ずる。東海道は海国(太平洋に面した)の道筋を申し、中山道は東山道の内の中筋の道なるがゆえにいう。海なき国、下野国・甲斐国は日光道中・甲州道中と唱(とな)うべし」
東海・中山(仙)道の起点は江戸日本橋からで、東海道は、京都まで132里と22丁。中山道は135里と22丁で3里長く山道が多いので、東海道より旅の日数が1〜2日よけいにかかりました。
日光道中・奥州道中・甲州道中は、幕府の布達では道中とすべしと定められましたが、街道と呼ばれました。
これら五街道に道幅は4間前後で、広くて7間、箱根峠は2間でした。
日光街道は千住から宇都宮・日光山まで。奥州街道は宇都宮までは日光街道と同じですが、宇都宮から分かれて白河まで、のちには箱館までをいいます。甲州街道は新宿から信州下諏訪まで。下諏訪で中山道と結びつきました。
この五街道を幹線として、その他多くの支線や付属街道が開かれました。付属街道には「佐屋路・美濃路・例幣使(れいへいし)街道・壬生通・水戸佐倉道・本坂通(姫街道)・日光法成道」がありました。各藩でも、これらの諸街道に通じる街道を開いて行きました。
五街道には1里ごとに一里塚がおかれました。宿駅(宿場)は2〜3里ごとにおかれ、問屋場には宿役人がつとめ、公用の人馬の継ぎ立てを行ないました。宿場には高札場があり、幕府から出されるお触れなどを張りだしました。また諸大名や公用役人の宿泊施設として本陣がおかれ、その他に庶民が利用する旅籠(はたご)や木賃宿(きちんやど)がありました。
2.他の年、この日の記事
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今日はここまでです。
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