4月 出来事

4月20日 <運動会が大人気!日本女子大学校が開校(1901年=明治34)>


今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

これは5分程度で読める記事です。

1.出来事ピックアップ

 

1901年(明治34)の今日、東京・目白台の日本女子大学校の開校式が行われました。

 

2.解説

 

「女子を人として、婦人として、国民として教育する」

という情熱をもって、成瀬仁蔵(なるせじんぞう)が設立準備に6年間も奔走した日本女子大学校の開校式が、1901年(明治34)4月20、東京・目白台の校庭で挙行されました。当日の天気は春雨がぱらついていたそうです。

 

長州藩の支藩、吉敷(よしき)の下級武士の子に生まれた成瀬は、1876年(明治9)に山口県教員養成所 を卒業して教鞭をとり、また。キリスト教に入信し新しい人間観を学び、女子教育者としての第一歩を踏みだそうと決意しました。4年間アメリカに留学したのち一時、大阪の梅花女学校長をつとめましたが、1896年(明治29)から本格的な女子大学設立運動を開始し、ようやくわが国最初の女子大学校の開校にこぎつけたのでした。

 

ここで、明治初年からのわが国の教育の歴史を俯瞰しておきましょう。

 

明治政府は近代化政策の一環として国民教育を重視し、その普及・発展につとめました。

 

しかし、1872年(明治5)に公布された学制は 画一的すぎて国民生活の実情に合わない点も多かったので、1879年(明治12), これを廃止して教育令を公布しました。教育令はアメリカの制度にならう自由主義的なもので、小学校教育の大綱のみを定めて、その実際の運営は各地方の自主性にゆだねることとし、最低就学期間は16カ月と大幅に短縮されました。しかし、その放任主義により。 かえって教育が衰える危険もあったので、翌1880年(明治13)、政府は教育令を大幅に改め(改正教育令)、学校教育の内容やその運営に対する政府の指導・監督を強化し、最低就学期間は3年間と定められました。

 

また、高等教育の面でも、1877年(明治10)、東京開成学校と東京医学校が合併して、東京大学が設立され、日本で最初の西洋風の近代的総合大学が発足しました。

 

このようにして教育はしだいに普及しましたが、反政府的な自由民権風潮が高まるにつれて、政府ははじめの自由主義・功利主義的な教育政策から、しだいに国家統制を強化する方向に向かいました。小学校において儒教道徳に基づく修身教育が重視され、政府による教科書の検定制度が実施されて、自由主義的内容の教科書が使用されなくなくなっていきました。

 

1886年(明治19)には、文部大臣森有礼(もりありのり)のもとで、帝国大学令・師範学校令・中学校令・ 小学校令など一連の学校令が制定され、体系的な学校教育制度が確立されました。小学校令では小学校は尋常小学校4年(一部に3年の課程も設置)とし、保護者には児童に教育を受けさせる義務があることを定めていた。さらに、1894年(明治27)に高等学校令、1899年(明治32)に実業学校令・高等女学校令・市立学校令、1903年(明治36)に専門学校令、1918年(大正7)には大学令が相次いで公布されました。

 

教育普及の点については1890年(明治23)、小学校令が改正され、これによって尋常小学校3〜4年間の義務教育制度が定められ、1900年(明治33)の改正で、4年間の義務教育期間が確定されるとともに、学校の授業料が廃止されました。この結果、義務教育の就学率、とくに女子の就学率が大幅に伸びました。1907年(明治40)には尋常小学校が6年に延長されて義務教育となり、国家による初等教育の普及をもたらしました。明治末期には、小学校は2万5000校を超え、児童の就学率は98%以上に達し、男女間の就学率の格差もほとんどなくなりました。

 

 

民間では、福沢諭吉の慶應義塾(1868)、新島襄の同志社英学校(1875)、大隈重信の東京専門学校(1882、のちの早稲田大学)をはじめ、東京法学社(1879、のちの法政大学)、明治法律学校(1881、のちの明治大学)、英吉利(いぎりす)法律学校(1885、のちの中央大学)、関西法律学校(1886、のちの関西大学)やキリスト教系のミッション・スクールなどの私立学校が発展し官学とはやや異なった立場から、教育の普及に力を注ぎ、新しい時代にふさわしい新知識を身につけた多くの人材を世に送り出しました。

 

さらに、女子高等教育の面では、明治初期には官立の女子師範学校・女学校などがつくられましたが、その要請はしだいに高まり、政府は1899年(明治32)に制定した高等女学校令により、全国に高等女学校を設置し、女子教育の普及をはかりました。民間においても女子の専門学校として、1900年(明治33)前後には、今日ご紹介している成瀬仁蔵日本女子大学校、津田梅子の女子英学塾(のちの津田塾大学)などが創設され、多くはいわゆる良妻賢母教育を中心とするもので、女子高等教育は男子と切り離されて別の発達をみました。

 

ところで、日本女子大学校の開校時の入学者は、家政・国文・英文の各学部および英文予科が222名、附属高等女学校が228名でしたた。その生徒達は、年齢も18〜35歳まで、経歴も女学校卒業直後の者、既婚者、教員といった感じで様々でした。当時、女子の高等教育には多くの疑問や批判が向けられていて、1889年(明治32)2月にようやく上記した高等女学校令が公布され、各県に最低1校を設置することが義務づけられた状況でした。

 

そうしたなかで「女子大」といえば、この日本女子大学校をさしていましたが、同時にその教育方針も智育・徳育・体育を施して人間として欠くべからざる資質を備えさせるとともに、自立的な人間を育成するという時代の最先端を走るものでした。

 

とりわけ注目されたのは体育教育の重視で、毎年開催される運動会は東京名物のひとつとで大人気を博したそうです。

 

今日はここまでです。

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