5月12日 <伊藤博文ら長州五傑、英国に密航。長州ファイブ(1863年=文久3)>

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1863年(文久3)のこの日、伊藤博文ら長州五傑は英国留学へと出発しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1863年(文久3)5月12日、長州藩士伊藤博文・井上馨・山尾庸三・野村弥吉(のちの井上勝)・遠藤謹助ら5名は、横浜のジャーディン・マセソン商会(英一番館)の裏門から船(チェルスウィック号)に乗り込み、英国留学へと出発しました。

 

この5名は長州五傑と呼ばれており、ロンドン大学には、何とChoshu Fiveとして碑が建てられているそうです。また、2006年には、この5名の事を題材にした『長州ファイブ』という映画が萩市・下関市の地元企業や市民の協力のもと製作されています。

 

当時は、海外渡航禁止であったので、この留学は秘密裡に行われ、伊藤博文らは暫くは石炭庫のなかに潜んでいたそうです。

 

約130日の長旅ののち、一行は同年9月23日にロンドンに到着しました。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水夫同然の粗末な扱いをされ、苦難の海上生活を強いられたらしいです。

 

これには裏話がありまして、同年5月18日頃上海に到着し、一行がジャーディン・マセソン商会上海支店の支店長に面会したときに、語学力の問題で話が通じなかったのです。…で、片言で次のような会話がされました。

 

支社長:「汝等は何のために洋行するのか?」

回答:「ネビゲーション」(「海軍を研究する」と言わんとして「ネイヴィー」と回答すべこところ、「ネビゲーション」と回答してしまったのです。)

 

そして、件の支社長は「この5人の日本人の洋行の目的はナビゲーション=航海術習得にある」と理解した…というのが上記の水夫同然の扱いを受けた所以なのです。

 

さて、伊藤博文はロンドン大学などで英語を学び、また博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広め、欧米先進列強と日本との国力の差に愕然としたのです。そうして伊藤は日本の進む道は尊皇攘夷にあらず、との見解に達します。

 

翌1864年(元治元)、列国の長州攻撃の噂を耳にした伊藤と井上とは、攘夷の誤りを説得するために、半年足らずの滞在で急きょ帰国し、戦争回避に奔走しますが、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関を砲撃し、陸戦隊を上陸させて下関の砲台などを占領した四国艦隊下関砲撃事件が発生してしまいます。

 

伊藤・井上以外の3名は3〜5年間滞在して大学を修了して帰国しました。この3名は1865年(元治2)3月22日に薩摩藩から英国に密航留学したメンバーとも交遊関係があったそうです。

その薩摩藩士の密航についてが、拙blogでも記事にしていますので、併せてご一読頂ければ幸いです。記事へのリンクはこの下に貼り付けてあります。

3月22日 <薩摩藩の留学生、英国へ密航(1865年=慶応元)>

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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