5月 出来事

5月2日 <和田合戦勃発(1213年=建保元)>

2018/05/02

1213年(建保元)のこの日、源頼朝以来の功臣の和田義盛が北条義時を討つために挙兵しました。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

初代侍所(さむらいどころ)の別当であった和田義盛(わだよしもり)は源頼朝以来の功臣で、1199年(正治元)の年末に梶原景時(かじわらかげとき)が鎌倉を追放された後に、侍所別当の食に復帰していました。

 

1213年(建保元)、信濃源氏の泉親衡が、頼家の遺児千寿を将軍に擁立して北条氏を打倒する陰謀(泉親衡の乱)が発覚しました。この事件に関与したとして義盛の子の義直・義重、甥の胤長(たねなが)が逮捕されたのです。義盛は3名の赦免を嘆願しましたが、甥の胤長は、事件の首謀者であるとされて罪が免除されなかったことで面目をつぶされ、同年5月2日、北条義時を討つために幕府を攻撃しました。

 

しかし、味方をするはずであった義盛の本家の三浦一族に裏切られ、由比ヶ浜に追い詰められて一族ともに全滅してしまいました。

 

これが世にいうところの、鎌倉を戦火に巻き込んだ和田合戦です。

 

梶原景時は文武に優れた武将で、源頼朝や源頼家から厚い信任を受けていましたし、和田義盛もまたそうした武将でした。この時期、そのほかにも比企能員(ひきよしかず)や畠山重忠(はたけやましげただ)も北条氏に謀殺されています。

北条時政は、1203年(建仁3)には大江広元(おおえひろもと)と並んで政所(まんどころ)の別当となり、将軍の補佐を名目として幕府の政治の実権を握っていたのです。この時政の地位は執権とよばれ、これ以降代々北条家に伝えられていきました。

 

この時政の後を継いだのが北条義時でした。義時にとって、今日の出来事の主人公である和田義盛の勢力は侮れないものでした。そうしたところに、時政が義盛の顔を潰さねばならない背景があり、その挑発に義盛がのってしまった訳です。この事件の発端となった泉親衡の陰謀事件の逮捕者のうち和田一族以外は、和田合戦の直後に釈放されており、ここに北条義時の挑発による事件であったとされる所以があるのです。

 

この和田合戦の後、北条義時は政所とあわせ侍所別当も兼任し、執権の地位を不動のものとしたのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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