1604年(慶長9)のこの日、江戸幕府は輸入生糸の貿易統制のために、糸割符制度をはじめました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
江戸時代初期、日本の最も重要な輸入品は、中国産の生糸(白糸)でした。当時、ポルトガルは、マカオに拠点を置き、中国産の生糸を長崎に運んで巨利を得ていました。この生糸の輸入に関しては、外国人商人が値段決定の主導権を握っていたため、利益を独占出来たのですが、幕府としては、これを抑える必要がありました。
そこで幕府は1604年(慶長9)5月3日に、糸割符(いとわっぷ)制度を設け、糸割符仲間と呼ばれる特定の商人に輸入生糸を一括購入させて、ポルトガル商人らの利益独占を阻んで打撃を与えました。
この糸割符とは、輸入生糸の専売特権の証札のことです。はじめは、堺・京都・長崎に居た御用商人の茶屋四郎次郎をはじめとする富裕商人に糸割符仲間をつくらせ、毎年春、その糸割符仲間に輸入生糸の価格決定させ、一括購入したのち、それを一定の比率で仲間全員に分配したのです。
この制度の目的には以下のものがあったとされます。
- 幕府が直轄都市の富裕商人に特権を付与する。
- 生糸の輸入価格決定の主導権を日本側が握る。→価格抑制。
- 国内需要の高かった生糸の市価の安定させる。
当初は3か所でしたが、後に1631年(寛永8)に江戸・大坂が加わり5か所となり、五カ所商人と呼ばれました。さらに、特定の呉服商と博多など北九州の諸都市の有力商人への配分も行われるようになりました。
この制度の対象となる外国商人は、はじめはポルトガル人だけでしたが、1631年(寛永8年)に中国(明→清)人、1641年(寛永18年)にはオランダ人にも適用されました。
しかし、のちに五カ所商人が損失を被ったのが原因となり、1655年(明暦元)に糸割符仲間は解散しました。
この糸割符制度、1685年(貞享2)に復活し(定高貿易法:さだめだかぼうえきほう)、それ以降も存続しましたが、18世紀以降は国産生糸の増産により輸入が漸減したため、制度は形骸化し幕末に至りました。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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