1758年(宝暦9)のこの日、垂加神道学者の竹内式部(たけのうちしきぶ)は、子の主計とともに京都から伊勢国に追放されることになりました。宝暦事件と呼ばれる出来事です。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
おやおや、彩ちゃんが何やら食べ物ネタでニコニコしていますよ
今日の話題の竹内式部は、この垂加神道を学んでいます。
垂加神道は、黒猫Pinotが上で説明しているように山崎闇斎が提唱しているものですが、それは更に遡ると室町時代に土佐の吉良氏のもとで朱子学を講じ、南学の祖と言われる南村梅軒に行き着きます。まぁ、最近の学説ではこの南村梅軒が実在の人物であったかについては強い疑念が持たれています。
その南村梅軒によって開かれたとされる南学は、江戸時代に入ると土佐の谷時中(たにじちゅう)に受け継がれ、、この系統から山崎闇斎・野中兼山らが輩出されました。
闇斎一門は、崎門学派(きもんがくは)と呼ばれますが、この学派はやがて一種の神秘主義に陥り、朱子学の思想を基本とする独自の神道学である垂加神道を説いたのです。垂加は闇斎の別号で、神垂冥加(しんすいみょうが)の語に由来があります。それまでの、伊勢神道・唯一神道や吉川神道などを土台にしたもので、道徳性が強い傾向にあります。
それは、神道を儒教化したものともいえますが、神の道と天皇の徳とが一体であると説くことから、垂加神道は幕末の尊王論の論拠ともなったのです。
さて、この宝暦事件、1756年(宝暦6)に京中洛外で、神道や崎門学派で研鑽を積んだ竹内式部が、公家衆に軍学技術を指南していると噂が立ち、同年12月に京都町奉行所の取調べを受けました。
この時は、大きな問題にはならなかったのですが、そののち、式部の学に傾倒した桃園天皇の近習衆が、天皇に垂加流による「日本書紀」神代巻の講釈を進講したため、危惧した関白ら摂家衆と近習衆との対立を生み、ついに1758年(宝暦8)摂家衆が天皇を説得して徳大寺金城ら、式部門人の公家衆を大量処分するとともに、式部を京都所司代に告発したのです。
そして、翌1759年(宝暦9)のこの日、式部は子の主計とともに伊勢国に追放されることになりました。
この処分は、幕府にとっては尊王思想が公家に力を与えることを恐れたためでしたが、式部は学問と教育とに専念していただけで、特に行動を起こしたワケではなかったのです。ある意味、幕府の思想弾圧の犠牲になったといえましょう。
この竹内式部、のちに山県大弐(やまがただいに)らの明和事件に連座して、今度は八丈島に流罪という悲惨な目に遭いますが、その途中病没してしまいました。この明和事件はまた何時の日にか記事にしましょう。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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