6月14日 <武田信玄、父信虎を追放(1541年=天文10)>

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1541年(天文10)のこの日、武田信玄の父、武田信虎は突然甲府を出発して駿河の今川義元のもとへと向かいました。これは、信玄による父信虎の追放であった、とされています。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

武田信虎は、1494年(明応3)に甲斐国守護武田信縄(たけだのぶつな)の長男として生まれ、1507年(永正4)に家督を嗣いでいます。何と13〜4歳で家督相続したのですね。信虎を名乗ったのは1521年(大永元)からです。

その頃の武田氏は、父信縄の弟信恵が家督の座を狙って一族間の抗争が絶えませんでした。

甲斐国内でも信恵に同調する国人も多く、ゴタゴタ状態が続いていました。

 

信虎は家督を嗣いだ直後の1508年(永正5)10月、対立する叔父信恵を誅殺し、次いで都留郡の小山田氏を攻略。1519年(永正16)8月には、政庁をそれまでの石和から府中(現・山梨県甲府市)に移し、家臣団にも新城下への集住を命じて、国内の統一事業を推進しました。そして、これに反対した有力国人の大井氏や栗原氏・今井氏を1532年(天文元)までに制圧し、国内の統一事業を完了したのです。

それと同時に周辺の国に対しても侵攻しており、1521年(大永元)には隣国駿河に出兵、また1527年(大永7)には信濃国に攻め込んでいます。

また、そうして攻め込むだけでなく、1536年(天文5)には駿河今川氏の家督争いに関与して駿河に出兵し、今川義元を支持して息女を嫁がせていたり、1540年(天文9)には息女禰々(ねね)を諏訪郡の諏訪頼重の妻として送り込み、同盟関係を結んで隣国との緊張関係を緩和しています。

 

そうした外交面だけでなく、内政面でも各種の印判状を発して国内支配の強化を行っています。

 

しかし、国内統一を果たした頃から信虎の独断専行が強くなり、一部の重臣層の離反を招き、また長男であった晴信(のちの信玄)を廃して、次男の信繁を取り立てる動きをしたので、1541年(天文10)のこの日、その長男晴信によって、駿河の今川氏のもとへ追放されました。

 

この日の事が、信玄の近臣駒井政武の日記「高白斎記」に記録があります。

「六月小丙辰十四己巳、信虎公甲府御立、駿河へ御越。甲府に於て十六日、各存じ候」

(「高白斎記」から)

とまぁ、甲府にいた近臣さえも、信虎が駿河に出かけたことを翌々日に気づくほどの、いわばお忍び旅行だったのですね。晴信はこの機を逃しませんでした。

甲斐と駿河の国境を閉ざし、父を駿河に追放してしまったのです。

 

これだけを見ると、晴信の対応が厳しいものであると感じられますが、その原因は諸説ある様です。信虎が駿河に行ったあと、晴信(信玄)は父の生活費の面倒をみ、女中まで派遣しており、父に気を使っていたことがわかります。

 

その後、信虎は25年間、今川義元の世話になり、1560年(永禄3)義元の死後京都に入り、将軍足利義輝の相伴衆になったり、高野山に登ったりしましたが、西国を流浪したのち、72歳のとき信濃に入りました。そして武田氏支配の重要拠点の一つであった信濃の高遠で1574年(天正2)3月に亡くなっています。81歳の寂しい晩節でした。

死後、孫の武田勝頼によって甲府の大泉寺に葬られ、33年振りに甲府に戻ることができたのです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は、この「信虎追放」の記事を書きかけたまま下書き状態で放置してありました。そのため、昨年の記事は無しです。

 

今日はここまでです。

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