6月22日 <延暦寺衆徒、法然の墓を破壊「嘉禄の法難」(1227年=嘉禄3)>

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1227年(嘉禄3)のこの日、大谷に葬られていた法然の墳墓が延暦寺の衆徒によって破却されました。「嘉禄の法難」と呼ばれる事件です。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

法然は<南無阿弥陀仏>と唱えれば救われるという教えを広め、その浄土宗は多くの信徒を集めました。しかし、法然の浄土宗は旧仏教の中心である延暦寺などから迫害を受けました。

法然は美作(みまさか)の稲岡荘に生まれ、13歳で比叡山にのぼって天台を学び、源信の流れをくむ叡空に師事して念仏の門に入り、法然房源空と名乗りました。彼はやがて<南無阿弥陀仏}と念仏を唱えれば(口称念仏:こうしょうねんぶつ)、誰でも極楽浄土に往生出来るとの悟りに達しました。異なる念仏観をもっていた師の叡空と対立した法然は、43歳のときに比叡山を下り、念仏だけにすがる専修念仏の救いを説きました。

 

当時の仏教は、仏像や寺院をつくること、難解な教義を学び厳しい戒律を守ることを求めていましたが、法然は念仏さえ唱えれば経済的負担も学問も戒律も必要ではなく、日常生活を営みながら信仰生活を送れる、と説いたのです。彼には新しい宗派を開く意志も従来の仏教のあり方を糾弾するつもりもなかったのですが、極めて平易なその教えに人々は次々に帰依していきました。

 

それをみて、旧仏教は厳しい迫害をはじめました。彼は、1207年(承元元)には讃岐に流され、門弟たちも処罰を受けました(承元の法難)。ほどなく許されて帰京し、法然は1212年(建暦2)、京都東山大谷(現・京都市東山区)で死去した。享年80(満78歳)でした。

彼の死後、門弟たちは多くの流派に分かれて教えを広めました。隆寛(りゅうかん)の長楽寺派、覚明(かくみょう)の九品寺派、証空(しょうくう)の西山派などであり、これらを総称して浄土宗と言います。

 

さて、法然は死後、京都の東山大谷に葬られましたが、その墓堂は専修念仏者の聖地として付近には信徒が集まりました。幸西・隆覚・空阿はそうした信徒たちの指導者と見られていました。

延暦寺の定照(じょうしょう)が「弾選択(だんせんちゃく)」を著して法然の「選択本願念仏集」を批判したのに対し、隆覚は「顕選択」を書いて反論しました。こうしたことが延暦寺側を刺激し迫害は続き、1227年(嘉禄3)のこの日、延暦寺衆徒は大谷墳堂は破却し、法然の墓をあばこうとしたのです。同年7月には隆覚は陸奥・幸西は壱岐・空阿は薩摩への流罪に処されこれらの事件を「嘉禄の法難」と呼んでいます。

 

さて、法然の墓があばかれたのか…気になりますよねぇ。以下にWikipediaの記述を引用します。

そして、延暦寺の僧兵が動き出した。朝廷の許可など出ていない状態で法然廟所を襲って破壊したのである。 これに驚いた浄土宗の僧たちは、天台宗の僧兵たちが更に法然の遺骸を鴨川に流すつもりでいるのを聞き、信空と覚阿が中心となって機先を制して22日に法然の遺骸を掘りおこし、嵯峨の二尊院に運ぶことにした。事は秘密裏に行われるはずだったが、これを聞いた浄土宗の信者である蓮生(宇都宮頼綱)、信生(塩谷朝業)、法阿(東胤頼)、道弁(渋谷七郎)などの出家者や、六波羅探題の武士団が1000名も集まって遺骸移送の護衛についた。そのため、二尊院に着いた頃には延暦寺側に動きがばれてしまい、今度は証空が中心となって28日に円空がいた太秦の広隆寺境内にある来迎院(現、西光寺)に移し、一旦改葬を行った。

(Wikipedia「嘉禄の法難」から引用)

記述にあるように浄土宗の信徒たちが、法然の遺体を守ったのですね。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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