6月4日 <ロシア海軍士官ゴロブニン、捕らえられる(1811年=文化8)>

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1811年(文化8)のこの日、ロシア海軍士官ゴロブニンは択捉(えとろふ)島・国後(くなしり)島を測量中に松前奉行所役人に捕らえられました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

ゴロブニン、と書きましたが書籍によってはその表記が異なっています。ゴロヴニン、ゴローヴニン、ゴロブニン、ゴローブニン、ゴロウニン、ゴローウニン、ゴローニンなど様々です。ロシア語で書くとВасилий Михайлович Головнин, Vasilii Mikhailovich Golovninとなり、最後の部分がゴロブニンなんでしょうね。

 

ゴロブニンの肖像画がWikipediaにあったので無断借用してきました。画像やその下の青文字からWikipediaでの画像が見られますが、今回はそれほど大きな画像ではありませんよ。

<ゴロブニン>

 

さて、このゴロブニン、海軍士官学校を卒業した後、イギリスに留学します。帰国後、軍艦ディアナ号艦長として世界周航航海を命じられます。

1811年(文化8)のこの日、択捉島・国後島を測量中に、松前奉行所の役人奈佐瀬左衛門に士官ら7人とともに捕らえられ、松前・箱館で2年3ヶ月余りの監禁生活を送りました。ゴロヴニーンは、この幽閉中に間宮林蔵に会見し、村上貞助や上原熊次郎にロシア語を教えたりもしたそうですよ。

 

実はこれは、1806-7年(文化3-4)のロシアの海軍士官による樺太・択捉襲撃事件(文化露寇事件)への報復だったのですねぇ。

ディアナ号副艦長リコルドは救出のため、翌1812年(文化9)高田屋嘉兵衛と水主4人を捕らえてカムチャッカに連行し、嘉兵衛の沈着な判断に助けられて1813年(文化10)に、嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換えにゴロヴニーンの釈放が実現しました。

 

ゴロブニンは帰国後の1816年に、この経験を綴った「日本幽囚記」を刊行し、日本事情を知る本として各国で翻訳されて有名となりました。日本でも、1825年(文政8)にはオランダ本から翻訳された「遭厄日本紀」として出版されました。

 

ゴロブニンの著した「日本幽囚記」は、講談社学術文庫の「日本俘虜実記」で読むことができます。そのほか岩波文庫からも「日本幽囚記」として上中下3巻で発刊されています。以下のリンクからご確認頂けます。


日本俘虜実記 (上) (講談社学術文庫 (634))


日本俘虜実記 (下) (講談社学術文庫 (635))

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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