6月5日 <「柔道の父」嘉納治五郎、塾・講道館を開く(1882年=明治15)>

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1882年(明治15)のこの日、嘉納治五郎は、東京下谷北稲荷町の永昌寺の書院を借りて塾を開き、講道館と名付けました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

「柔道の父」として知られる嘉納治五郎ですが、むしろ教育家としての側面が強く、また本人も東京大学出身で、文武両道を体現なさった方であられます。

 

1860年(万延元)、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)に生まれた嘉納治五郎は、1870年(明治3年)に父親に付いて上京し、1874年(明治7年)に育英義塾(のちの育英高校)に入塾しました。その後、官立東京開成学校(のちの東京大学)に進学し、1877年(明治10年)には東京大学に入学しました。

 

その当時から、治五郎自身が虚弱であったことから、非力な者でも強力な者に勝つことに思いを馳せていたそうです。そして柔術を学びたいと考え、1877年(明治10)福田八之助の天神真楊流柔術に入門しました。1879年(明治12)8月、師匠の福田八之助が亡くなった後、天神真楊流の家元である磯正智に師事します。さらに、1881年(明治14年)磯が亡くなった後、飯久保恒年に起倒流の柔術を学びました。

その頃の治五郎の柔術についての記述がWikipediaにあるので引用します。

柔術二流派の乱捕技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。

(Wikipedia「嘉納治五郎」から引用)

1882年(明治15)、学習院の英語講師となった治五郎は、同年のこの日、東京下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)にある永昌寺の居間と書院を借りて塾を開き、講道館を名付けました。

Wikipediaを更に引用します。

1882年(明治15年)、下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし囲碁・将棋から段位制を取り入れ講道館を設立した。

(Wikipedia「嘉納治五郎」から引用)

段位制は講道館が作られたときから有ったのですねぇ。

 

さて、治五郎はその後、九段富士見町に道場を開き柔術諸流派の技術を統合し、体育的に再編成して講道館柔道の名乗りを上げるのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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