1615年(元和元)のこの日、徳川秀忠は伏見城に諸大名を集めて、武家諸法度を公布しました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
1615年(元和元)4月に大阪夏の陣が行われ、同年5月に大坂城が陥落し、淀君・秀頼母子に自害によってこの合戦は終結を迎えました。
そして、その大阪夏の陣直後から徳川家康はいよいよその体制固めを急ぎました。まず大名の居城一つに限る「一国一城令」を出して、本城を除くすべての支城を破壊させ、幕府に対抗する軍事的な拠点を取り除かせるのが目的でした。諸大名にとっても、領内の支城を拠点にして大名に対抗しようとする有力な武士を弱体化させる効果を持っていました。
この「一国一城令」については、拙blogで記事を書いていますので、あわせてご笑覧下さい。
→6月13日 <江戸幕府、一国一城令発令(1615年=慶長20)>
そして1615年(元和元)のこの日、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠は、諸大名を伏見城に集め、武家諸法度を公布しました。
この武家諸法度は、徳川家康が金地院崇伝(こんちいんすうでん)らに命じて法度草案を起草させ、検討したもので、漢文体で13ヵ条からなるものでした。起草といっても建武式目などの先行法規を参考に、武家、とりわけ大名の守るべきものを定めたものでした。
その内容を大別すると、政治・道徳上の訓戒、治安維持の規定、儀礼上の規定といったもので、幕府の大名統制の基本方針が示されたものでした。Wikipediaからその内容を以下に引用してきました。
武家諸法度(1615年版)(Wikipedia「武家諸法度」から引用)
- 文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事。
- 群飲佚游を制すべき事。
- 法度を背く輩、国々に隠し置くべからざる事。
- 国々の大名、小名并びに諸給人は、各々相抱うるの士卒、反逆をなし殺害 の告有らば、速やかに追出すべき事。
- 自今以後、国人の外、他国の者を交置すべからざる事。
- 諸国の居城、修補をなすと雖、必ず言上すべし。況んや新儀の構営堅く停止せしむる事。
- 隣国の於て新儀を企て徒党を結ぶ者之ば、早速に言上致すべき事。
- 私に婚姻を締ぶべからざる事。
- 諸大名参勤作法の事。
- 衣装の品、混雑すべからざる事。
- 雑人、恣に乗輿すべからざる事。
- 諸国の諸侍、倹約を用いらるべき事。
- 国主は政務の器用を撰ぶべき事。
伏見城に集めた諸大名に対して、これを起草した金地院崇伝に朗読させ聞かせたのでしたが、大名から誓詞をとることもせず一方的に通告しただけだったのです。発布者は徳川秀忠でしたが、その後ろにいた徳川家康の自信を伺わせる公布でした。
しかしながら、これによって幕府と諸大名との関係は、私的な従属関係を脱して公的な政治関係となった、とも言えましょう。すなわち、大名は、各領国において主権者(公儀)として領民にのぞむという領域支配の正当性、体制確保を幕府から認められたということでもあったのです。
この武家諸法度は、将軍の代替わりごとに発布されるのが基本でしたが、7代徳川家継と15代徳川慶喜は発布しておりません。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。
今日はここまでです。
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