9月13日 <乃木希典夫妻が、明治天皇に殉じて亡くなる(1912年=大正元)>

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1912年(大正元)のこの日、明治天皇に殉じて乃木希典夫妻が東京の赤坂新町の自宅で自ら世を去りました。

これは大正時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1912年(大正元)のこの日、同年7月30日に崩御された明治天皇の大喪が行われましたが、乃木希典(のぎまれすけ)は静子夫人とともに東京の赤坂新町の自宅で自ら世を去りました。遺書によって、明治天皇に殉じて亡くなったことが判明しました。

 

乃木希典はまさに軍人としての一生でした。

  • 1865年(慶応元):報国隊に参加して幕府軍と戦う。
  • 1869年(明治2):伏見御親兵兵営に入営
  • 1870年(明治3):脱藩騒動鎮圧のため萩藩に戻る
  • 1877年(明治10):西南戦争で軍旗を失う
  • 1886年(明治19):川上操六(かわかみそうろく)とともにドイツ留学
  • 1888年(明治21):ドイツから帰国。その後、軍紀確立を主張する報告書を提出
  • 1895年(明治28):日清戦争では歩兵第一旅団長として旅順攻略
  • 1896年(明治29):台湾総督に就任
  • 1904年(明治37):日露戦争では第三軍司令官として旅順攻略を指揮。この際、自らの二子含め多くの戦没者を出す。

この様な陸軍大将までのぼりつめた立派な軍人としての経歴の他にも、伯爵でもあり、日露戦争後には学習院院長も務めておられます。その当時の日本人にとっては乃木希典は旅順攻撃の思い出とともに思い出される人でした。

 

その超が付く程の有名人・国民的英雄であった乃木大将が、明治天皇に殉じて亡くなったので、国民の驚きは大きかったと思います。その遺書には

「うつし世を神さりましし大君の御跡慕ひて我はゆくなり」

とあり、殉じて亡くなったことが判明したのでした。

 

また、遺書には、「伯爵乃木家が断絶するようにしてほしい」とあったのも注目されたことでした。

 

乃木夫妻には二人の男子がありましたが、ともに日露戦争で戦死しており、他には子どもが居ませんでした。静子夫人は一緒に殉死することは想定していなかったらしく、乃木大将は、自分の没後に、静子夫人が周囲から

「養子をとって伯爵乃木家を存続させなさい」

と迫られるのを苦慮していたのでは、と考えられています。

 

この時、静子夫人も一緒に亡くなっているので、伯爵乃木家は断絶しましたが、1915年(大正4)に、<伯爵乃木家再興>の運動が始まり、反対論を押し切って、乃木大将の旧主人の筋の毛利元智が当主となって乃木家が再興されたのです。

 

この新・乃木家も長女淑子の恋愛事件がきっかけで、1934(昭和9)に爵位を返上し、ようやく乃木大将の遺言通りになりました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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