9月18日 <将軍徳川家斉、大黒屋光太夫に会う(1793年=寛政5)>

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1793年(寛政5)のこの日、江戸城吹上に召し出された大黒屋光太夫は将軍徳川家斉と老中松平定信ら幕閣とに謁見しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

伊勢国安芸郡白子生まれの船頭大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)は、1782年(天明2)12月白子浦を出帆して江戸に向かいましたが、その乗った神昌丸が遠州灘(駿河湾沖)で暴風雨に遭い遭難してしまいました。

 

8ヶ月にわたる漂流の末、翌1783年(天明3)アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。4年間在島したのちカムチャッカに移り、1789年(寛政元)イルクーツクに到着しました。そこでキリル・ラクスマンの知遇を得た光太夫は、1791年(寛政3)ペテルブルクを訪れ女帝エカテリーナに拝謁し、帰国を願い出たのです。

 

帰国を許された光太夫は、1792年(寛政4)9月3日にキリルの息子のアダム・ラクスマンに伴われて、行動を共にしていた小市・磯吉らとともに根室に帰国しました。11年目の生還で、鎖国後に公然と帰国できた漂流民第1号となったのでした。

 

小市は根室で亡くなりましたが、光太夫・磯吉の2人は江戸番長薬園に軟禁されました。そして翌1793年(寛政5)のこの日、光太夫は江戸城吹上に召し出され、洋服姿で将軍徳川家斉と老中松平定信ら幕閣らに謁見しました。

この江戸に居た時に行われた数々の問答は、蘭学者桂川甫周の「漂民御覧之記」「北槎聞略」に書き留められ、それは貴重なロシア情報となりました。

 

Wikipediaに光太夫と磯吉との画像があったので無断拝借してきました。画像またはその下の青文字をクリックして頂きますと、Wikipediaの大きな画像が見られます。

<大黒屋光太夫と磯吉>
(Wikipedia「大黒屋光太夫」から無断借用)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

  • <満州事変が勃発する(1931年=昭和6)>

今日はここまでです。

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