1月14日 <昭和基地でタロ・ジロと奇跡の再会(1959年=昭和34)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1959年(昭和34)の今日、第3次南極観測隊隊員が、南極の昭和基地で樺太犬(からふといぬ)のタロとジロと再会しました。

 

この出来事の発端は、その前年に遡ります。

 

1958年(昭和33)2月11、1年間にわたり南極で観測を続けてきた西堀栄三郎第1次越冬隊長以下10名(合計11名)が、南極観測船の宗谷からの迎えの飛行機で昭和基地をあとにしました。

 

犬飼育係の菊池徹隊員と最年少の北村泰隊員は、交替する第2次越冬隊員の為に、15頭の犬を基地のそばに鎖でつないできました。ところが、第2次越冬隊員は先遣隊3名が昭和基地に到着したものの、悪天候の為に引き返すことになりました。その際の、第2次越冬隊の永田隊長から先遣隊への指令は厳しいものでした。

「3名を収容して外洋に出るのはバートン・アイランド号艦長の至上命令であり、気象的にも空輸の可能性は後1便しかない。越冬には樺太犬が必要なので野犬化したり、共食いしたりしないよう、必ず鎖につないだまま帰船してほしい」

 

やむなく、3人は15頭の犬の食料2か月分を分配した後、帰国しました。15頭の犬は首輪で昭和基地付近につながれたままにされたのでした。

 

「犬たちを置きざりにしてきた……」

隊員達の心には、苦楽をともにした犬たち への思いが一杯だった事でしょう。この犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びることとなったそうです。

 

翌1959年(昭和34)の今日、第3次越冬隊員は、昭和基地へ到着して驚きの目をみはりました。ヘリコプターに乗った隊員が、上空から昭和基地に2頭の犬が生存していることを確認したのです。第1次越冬隊で犬飼育係だった北村隊員が、呼んだところ明るい声で吠えながら2頭の犬がすりよってきたのでした。15頭の犬のうち、8頭は鎖を抜け出しましたが、結局、生き残れたのはダロとジロの兄弟だけでした。7頭は首輪につながれたまま息絶えており、他の6頭は見つかりませんでした。

 

「昭和基地は無事だった。大も2頭生きていた。施設、すぐにも使える」

と大見出しで朝日新聞は翌日(1月15日)、朝刊の第一面に報じ、タロとジロの写真をのせました。2頭の生存のニュースは、日本中に驚きと感動とをもたらしました。

 

基地に置いてきた犬の食料や死んだ犬を食べた形跡はなく、アザラシの糞やペンギンを食べて生きていたのだろうと北村隊員は推測しています。北村らは3次隊越冬の際、タロとジロが2頭でアザラシに襲いかかる所や、食料を貯蔵する所を目撃しているのです。この兄弟は特に首輪抜けが得意な個体だったそうです。

 

その後、ジロはその1年半後の1960年(昭和35)7月9日、第4次越冬中に昭和基地で腸をいためて病死、5歳でした。

また、タロは5年にわたって南極で生活し1961年5月に日本に帰国し、1961年から1970年まで札幌市の北海道大学植物園で飼育され、日本へ帰ってからも大変な人気者でした。1970年(昭和45年)8月11日に老衰のため死亡、14歳7か月でした。

 

 

この写真は、上野の国立科学博物館に展示されているジロの剥製で、画像はWikipediaから無断で借りてきました。58年前、北村隊員は、近寄ってきた犬の前足の先が白いので、ジロだと思って名前を呼び、ジロは尻尾を振って応えてくれたそうです。

 

(写真:Wikipediaから無断借用)

 

北海道大学の犬飼教授は、こう語っています。

「私はタロが生まれてから南極へ行くまで、10ヶ月飼育しただけですが、タロの帰国を晴海に迎えた私を、タロは覚えていました。ほんとに頭のいい犬でした」

こうした、頭のいい犬だからこそ、厳しい環境でも生き延びられたんでしょうね。

 

今日はここまでです。

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