1月21日 <帝国議会で腹切り問答(1937年=昭和12)>

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81年前のこの日、第70回帝国議会で、立憲政友会の浜田国松代議士が軍部批判の演説を行ったのに対し、寺内寿一陸軍大臣は「軍人に対する侮辱…」と反撃し、双方の間で割腹する…しないの「腹切り問答」と呼ばれる口論がされました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1936年(昭和21)2月26日の起こった二・二六事件をきっかけに、陸軍当局は”粛軍”を実施し軍部内の統制回復をはかるとともに、岡田内閣の後継内閣に閣僚人事に介入し、親英米派・自由主義者と目される人物の入閣を拒みました。例えば、廣田内閣に外務大臣として入閣が予定されていた前駐英大使吉田茂は、陸軍側に拒否されて入閣できなかったのです。

そして同年3月、廣田弘毅(ひろたこうき)内閣が成立すると、首相に迫って軍部大臣現役武官制を復活させました。

このように軍部、とりわけ陸軍の政治的発言力が強まる中で、廣田内閣は”高度国防国家”の建設を政綱として、莫大な軍事予算を計上するとともに、同年8月、首相・外相・陸相・海相・蔵相からなる5相会議で「国策の基準」を決定し、中国大陸と南方とを日本中心にブロック化する国策を打ち出して、国内改革と外交刷新とを図って行きました。

ところが、その軍備拡張政策による軍需インフレ政策は財界を大きな不安に陥れ、また軍部が議会や政党を無力化しようとしている構想に政党は激怒し、高度国防国家を目指す軍部は、国内改革が不徹底だとし廣田内閣に不満で、内閣は財界&政党&軍部両者の板挟み状態だったのです。

1937年(昭和12)になると、年頭から、政変の気配が濃厚になり、陸軍からは議会解散論も出てきました。

 

そんな時期に始まったのが、休会明けの第70回帝国議会でした。

1937年(昭和12)のこの日、衆議院本会議の演壇にのぼった立憲政友会の浜田国松代議士は、

「近年のわが国情は特殊の事情により、国民の有する言論の自由に圧迫を加えられ、国民はその言わんとする所を言い得ず、わずかに不満を洩らす状態に置かれている。軍部は近年自ら誇称して…独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々として軍の底を流れ、時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険がある」

と軍部を批判したのです。この演説に対し、立憲政友会はもとより、民政党もまた盛んな拍手を送ったのでした。

 

答弁に立った寺内寿一陸軍大臣は、政治が憲法の精神で運用さるべきことはわれわれが常に言明しているのに、しかもなお疑っているのは、ある種の幻影に眩惑されているのではないかと反論し、浜田君の演説中

「或は軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承りますが」

と遺憾の意を付け加えたのでした。

この点をとらえた浜田代議士は、すかさず

「私の言葉のどこが軍を侮辱したのか事実を挙げなさい」

と詰めより、それに対し寺内陸相は

「侮辱されるが如く聞こえた」

と言い直したのです。それでも浜田代議士は

「速記録を調べて、僕に軍隊を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝する。なかったら、君が割腹せよ」

と大見得を切ったのです。

これに寺内は激怒し、浜田を壇上から睨みつけたため、議場は怒号が飛び交う大混乱となりました。下の写真は、Wikipediaから無断借用したもので、壇上から浜田代議士を鬼の形相で睨む寺内陸相です。写真またはその下の青文字からWikipediaの大きな写真が見られます。

<壇上から浜田代議士を睨みつける寺内陸相、奥が広田総理>

 

これがいわゆる「腹切り問答」「割腹問答」と呼ばれる出来事で、それ自体は言葉尻の争いに過ぎませんでしたが、軍の横暴に対する政党の反発を代弁したものだったので、議員は大喜びでやんやの大喝采だったそうです。

 

この「腹切り問答」原因で、廣田内閣は閣内不統一を理由に内閣総辞職したのです。

ちなみに、国民は…二・二六事件以降、軍の政治関与を危惧していたこともあり、浜田代議士の姿勢に喝采を浴びせたそうです。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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