1月21日 <薩長同盟が結ばれました(1866年=慶応2)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1866年(慶応2)の今日、京都の薩摩藩邸において、薩摩藩と長州藩との間で薩長同盟と呼ばれる政治的、軍事的同盟が結ばれました。

 

この出来事についての話を書き始めるに当たって、まず、この幕末期の政局の大きなうねりに付いてご説明申し上げる必要がある事に気づきました。そんな事もあり、今回のblogは非常に長大なものになってしまいました。

 

この時期の政局のキーワードが2つあります。「公武合体」と「尊皇攘夷」です。

 

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1.「公武合体と尊攘運動」

 

1860年(万延元)に起こった桜田門外の変のあと、幕政の中心にすわった老中安藤信正(あんどうのぶまさ)は、通商条約調印により対立した朝廷との関係を改善し、それによって幕府批判勢力を押さえ込み、さらに条約問題で分裂した国論を統一して幕府の権威を回復させるため、朝廷(公)と幕府(武)が協調して政局を安定させようとする公武合体政策を進めました。それを象徴するものとして、孝明天皇の妹和宮(かずのみや)を将軍家茂(いえもち)の妻に迎えることに成功しましたが、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)との結婚が決まっていたにも関わらず降嫁(こうか)させた強引な政略結婚は、尊王攘夷論者から激しく非難され、安藤は1862年(文久2)、江戸城坂下門外で水戸藩を脱藩した浪士らに襲われて傷つき、まもなく失脚してしまいました(坂下門外の変)。

 

幕府による公武合体策は頓挫しましたが、11代将軍家斉(いえなり)の夫人が島津重豪(しまづしげひで)の子で近衛(このえ)家の養女であったことなどから伺い知られますように、朝廷・幕府の双方につながりの深い外様(とざま)の薩摩藩が独自の公武合体策の実現に動きました。藩主の父島津久光(しまづひさみつ)は1862年(文久2)、寺田屋(てらだや)事件などで藩内の尊王議夷派を抑えつつ、勅使大原重徳(おおはらしげとみ)とともに江戸に赴き、幕政の改革を要求しました。幕府は薩摩藩の意向を入れて、松平慶永を政事総裁職(せいじそうさいしょく)に、徳川慶喜を将軍後見職(しょうぐんこうけんしょく)に任命しました。また、京都所司代などを指揮して京都の治安維持にあたる京都守護職を新設して、会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)をこれに任命し、あわせて参勤交代を3年に1回に緩和し、西洋式軍制の採用、安政の大獄以来の処罰者の赦免など、文久の改革と呼ばれる改革を行いました。

 

このように公武合体運動が幕府や雄藩藩主層を中心に進められたのと並行して、下級藩士を中心とする尊王攘夷派の動きが激しくなっていきました。尊王攘夷論は、尊王論と攘夷論とを結びつけた後期の水戸学の思想で、藤田東湖(ふじたとうこ)・会沢安(あいざわやすし)らが中心でした。尊王論それ自体は将軍の支配の正統性を権威づけるものでしたが、対外的な危機が迫ると攘夷論と結びつき、欧米列強の圧力に屈服して開国した幕府の姿勢を非難し、実践的な政治革新思想となっていったのでした。

 

尊王攘夷派の中心になった長州藩も、初めは公武合体運動を進めていましたが、1862年(文久2)に中下級藩士の主張する尊攘論を藩論とし、朝廷内部の尊攘派の公家とも結んで京都で活発に動いて政局の主導権を握りました。尊攘派が優位に立った朝廷は、しきりに攘夷の決行と鎖国への復帰を幕府に迫り、幕府は攘夷決行する気は毛頭ありませんでしたが、やむなく1863年(文久3)5月10日を期して攘夷を行うことを諸藩に通達しました。長州藩はこれに応じその日、下関の海峡を通過した外国船に砲撃を加える長州藩外国船砲撃事件をおこしました。

 

真木和泉(まきいずみ)らは孝明天皇が大和に行幸(ぎょうこう)し、天皇自ら攘夷戦争の指揮をとる計画もたてましたが、この長州藩を中心とする尊攘派の動きに対して、薩摩・会津の両藩は朝廷内部の公武合体派の公家と連携し密かに反撃の準備を進めていました。1863年(文久3)8月18日、薩摩・会津両藩兵が御所(ごしょ)を固めるなか、長州藩の勢力と急進派の公家三条実美(さんじょうさねとみ)らを京都から追放し、朝廷内の主導権を奪い返したのです。これを「八月十八日の政変」と呼びます。この出来事と相前後して、京都の動きに呼応し、公家の中山忠光(なかやまただみつ)、土佐藩士の吉村虎太郎(よしむらとらたろう)らが大和五条の幕府代官所を襲った天誅組(てんちゅうぐみ)の変、また、福岡藩を脱藩した平野国臣(ひらのくにおみ)、公家の沢宣嘉(さわのぶよし)らが但馬生野の幕府代官所を襲った生野の変、藤田小四郎ら水戸藩尊攘派が筑波山に挙兵した天狗党(てんぐとう)の乱など、尊攘派の挙兵が相ついで起こりましたが、いずれも失敗に終わりました。

 

八月十八日の政変で失った勢力を回復する機会を窺っていた長州藩は、1864年(元治元)、京都守護職の指揮下で京都市中の警備にあたっていた近藤勇(こんどういさみ)ら新撰組(しんせんぐみ)によって、京都の旅館池田屋(いけだや)で20数名の尊攘派志士が殺傷された池田屋事件に憤激し、藩兵を京都に攻めのぼらせました。しかし、迎え撃った幕府側の薩摩・会津、桑名の藩兵と京都御所付近で戦い、敗走してしまいました。この事件は御所周辺でおこったので、禁門(きんもん)の変あるいは蛤御門(はまぐりごもん)の変と呼ばれています。

 

幕府は尊攘派にさらに打撃を加えるため、禁門の変の罪を問うという理由で朝廷から長州征討第1次)の勅書を出させ、長州藩を攻撃しました。また、貿易の妨げになる尊攘派に打撃を加える機会を窺っていた列国は、イギリス公使オールコックの主導により、前年の長州藩外国船砲撃事件の報復として、イギリス、フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関を砲撃し、陸戦隊を上陸させて下関の砲台などを占領しました。この出来事は「四国艦隊下関砲撃事件」と呼ばれています。

 

幕府と列国の攻撃を受けて敗北した長州藩では、尊攘派にかわって俗論派(ぞくろんは)といわれる上層部が藩の実権を握り、禁門の変の責任者として家老3人を切腰させ幕府に恭順・謝罪の態度を示しました。また薩摩藩では、1863年(文久3)に、先の生麦事件の報復のため鹿児島湾に来航したイギリス艦隊と交戦して大きな被害を受け(薩英戦争)、撰夷の不可能なことがしだいに明らかとなっていきました。

 

イギリスなど4カ国はさらに、尊攘派勢力の退潮という好機を利用して、依然として通商条約を勅許しない朝廷に対して、1865年(慶応元)に兵庫沖に艦隊を送って軍事的な威圧をかけ、兵庫開港は認めさせられなかったものの、通商条約の勅許を勝ち取り、朝廷の攘夷方針をやめさせることに成功しました。その翌年、列強は兵庫開港が認められなかった代償として関税率の引下げを要求し、通商条約締結の際に定めた平均で約20%の関税率を廃止し、一律5%に引き下げる改税約書(かいぜいやくしょ)を結びました。

 

このころ、対日外交に指導的役割を果たしていたイギリスは、公使パークスがしだいに幕府の国内を統治する力が弱体化したことを見抜き、対日貿易の自由な発展のためにも、幕府にかわる政権の実現に期待するようになったのです。薩摩藩でも、薩英戦争で攘夷が不可能であることを知ってイギリスに近づき、西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)ら下級武士が藩政を指導し、武器の輸入・留学生の派遣・洋式工場の建設など、改革を進めていきました。

 

一方、フランス公使ロッシュは幕府を支持し、内政・外交上の助言、さらには600万ドルの借款(しゃっかん)など、財政的・軍事的援助を与えました。このようにイギリスとフランス両国は対日政策で対立することになり、朝廷・雄藩と幕府の対立と絡みあって外国勢力の介入の危険が高まりました。

 

2.「倒幕運動の展開」

 

いったん幕府に屈服した長州藩では、攘夷の不可能なことをさとった高杉晋作(たかすぎしんさく)・桂小五郎(木戸孝允:きどたかよし)らは、幕府に従おうとする藩の上層部に反発し、高杉は奇兵隊を率いて1864年(元治元)年12月に下関で挙兵し、藩の主導権を握りました。この勢力は領内の豪商・豪農や村役人層とも結んで恭順の藩論を転換させ、軍制改革を行って軍事力の強化をはかっていきました。

 

長州藩の藩論が一変したため、幕府は再び長州征討第2次)の勅許を得て諸藩に出兵を命じました。しかし、攘夷から開国へと藩論を転じていた薩摩藩は、長州藩がイギリス貿易商人のグラヴァーから武器を購入するのを仲介するなど、ひそかに長州藩を支持する姿勢を示しました。

 

1866年(慶応2)年正月には, 土佐藩出身の坂本竜馬(さかもとりょうま)・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)らの仲介で、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝充らが相互援助の密約を結び(薩長同盟、薩長連合とも)、反幕府の態度を固めたのでした。 

 

ここまでが、薩長同盟までの政局の動きの俯瞰です。

 

 

3.薩長同盟の話

 

さて、ここからが、今日の出来事に関する話です。

 

上記しました様に、長州征伐(第1次)の後、長州藩内では内戦がありました。征長軍とそれに同調する保守派の藩上層部によって抑圧されていた尊攘派諸隊(奇兵隊)は高杉晋作に率いられて挙兵し、内戦に勝利を収めて藩の主導権を得ました。

 

そして、新たな、しばしば討幕派と呼ばれる藩政指導部は武備恭順の方針を採択し、幕府への抗戦を決意して軍制改革を中心とする権力強化策を断行するのでした(長州藩割拠体制)。

 

しかし、長州藩独力で幕府へ抗戦することは困難でした。長州藩は、中央政局において自藩の利害を代弁してくれる勢力を必要としていました。

 

また、次に、長州藩は洋式兵器の購入を援助してくれる者を必要としました。軍事力強化のためには洋式兵器が必要です。しかし、長州藩はいわば反乱軍であったのて、正式ルートで輸入がてきなかったのでした。

 

こうした背景もあり、長州藩は二つの期待を薩摩藩にかけ、薩長両藩が接近していったのです。しかし、この両藩にはまた、数年前の政局のうねりのなかで生まれた対立と反目とがありました。これを除去して両者を同盟にまでの関係にまで仲介した立役者は、あの土佐藩の坂本龍馬、そして中岡慎太郎でした。

 

1865年(慶応元)6月に坂本・中岡の幹旋がなって、長州藩は薩摩藩ならびに亀山社中(のちの海援隊)の助力のもと、兵器購入に成功します。そして同年9月、長州藩主毛利敬親(もうりたかちか)・元徳(もとのり)父子は薩摩藩主島津忠義(しまづただよし)・生父久光(ひさみつ)に宛てて感謝と薩摩藩の行動を賞賛する書翰(しょかん)を送りました。

 

1866年(慶応二)、木戸孝允が上洛し薩摩藩邸に入りました。小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛らと会談。そして同年の今日(21日:幕府が長州処分案を奏上して勅許を得た前日でした。)、坂本竜馬の立会のもと、遂に薩長連合が締結されたのでした。それに至る間、坂本や中岡は、鹿児島や、長崎、下関を行き来して薩長二藩士たちの意向を打診し、段取りを注意深く進めてきたので、この盟約の成就はさぞ嬉しかったことでしょうね。

 

この内容は、木戸によれば六ヵ条。第一条は、幕長が交戦状態に入った場合、薩摩藩は出兵して京坂を守衛すべきこと、第二条〜第四条は、 長州藩が勝利を収めるにせよ敗色を濃くするにせよ、あるいは長州再征が実行に移されないにせよ、いずれの場合でも、薩摩藩は朝廷に対して長州藩の復権を入説すべきことが約されています。第五条は、徳川慶喜・松平容保・ 松平定敬等々が朝廷を管理して、長州藩の復権が拒絶された場合の武力行使の決意を語り、そして第六条は、長州藩の復権がなったのち、 両藩連合して「皇威回復」のために尽力すべきことをうたっています。

 

一部の切に、第五・第六条を重視してこれを討幕を目的とした連合とする見解もありますが、この段階では両藩とも武力討幕を具体的に考えてはいませんでした。したがってこの盟約は当面の攻守同盟とみた方が妥当です。

 

薩長同盟が結ばれた会談の内容はその場で記録されず、正式な盟約書も残されていません。上記の内容は木戸が記憶を頼りに、木戸なりに会談の内容を6カ条にまとめ、内容の確認のため坂本に送付した書翰(慶応2年1月23日付)により残されています。

坂本はこの書翰に対して、その裏面に「表に御記成被候六条は小西両氏及老兄龍等も御同席にて談論せし所にて毛も相違これ無き候、後来といへとも決して変り候事はこれ無きは神明の知る所に御座候」と内容保証の朱書をして返信(2月5日付)しています。

 

それ故、条文は、たとえば薩土盟約に比して、私的な文章という面もありますが、薩長両藩の行動への拘束力はきわめて強かったのでした。両藩の利害が均質であり、それぞれへの期待がふかく締結の当事者の藩代表性ないし藩政指導力が強く、その提携は政治的、軍事的な実践の面において具体的になされています。そして事実、この両者は提携どおりに行動して幕府の長州再征を失敗に終わらせました。

 

その後、薩長両藩とも他のいかなる勢力との同盟・提携よりも両者のそれを重視しました。そしてこの延長上に、1867年(慶応3)9月18日の討幕挙兵盟約があり、王政復古があり、明治の藩閥政府があったのでした。

 

以下に、その薩長同盟の読み下し文と、現代語訳をご紹介申し上げます。

 

 

一、戦いと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事

一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事

一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事

一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事

一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事

(Wikipediaの「薩長同盟」から引用)

 

一、戦争となったときは、薩藩兵二千人ほどを急速に東上させ、現在の在京の兵と合わせ、大坂にも千人ほどはおいて、京坂両所を固めること。

一、戦いが長州藩の勝利になる様子のときには、薩摩藩は朝廷へ申し上げて、尺力すること。

一、万一敗色であっても、一年や半年で潰滅するようなことはないであろうから、その間に薩摩はかならずいろいろと尽力すること。

一、これなりで幕兵が東帰したときは、きっと朝廷に申し上げ、すぐさま長州藩の冤罪がとけるように尽力すること。

一、兵士を上京させたうえでも、一橋・会津・桑名等が、今のようにもったいなくも朝廷を擁し、正義を抗み、周旋尽力の道をさえぎるようなときは、ついに決戦に及ぶほかはないこと。

一、冤罪がとけたうえは、両藩誠意をもって相合し、皇国のために身を砕いて尽力することはもちろん、いずれの道にしても、今日から両藩が皇国のため、皇威が輝き、回復することを目標に、誠心を尽くし、きっと尽力すること。

 

 

今日はここまでです。

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