1月24日 <長崎に大浦天主堂が完成(1865年=元治2)>

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153年前のこの日、長崎の大浦に外国人のため、という名目で建てられたカトリック教会の、日本26聖殉教者に奉献する献堂式が行われました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

大浦天主堂は長崎市南山手に現存する日本最古の天主堂です。

長崎の大浦は、江戸時代の幕末の開港後に外国人の居留地となった場所で、幕府は居留地内の外国人の信仰の自由を承認し、その外国人のためという名目で教会の建設が認められました。

 

フランス人宣教師のプティジャン・フューレ両神父の設計で、天草の棟梁小山秀之進の施工により、1864年(元治元)棟上げ、翌1865年(元治2)に3基の八角尖塔を立て、屋根は瓦葺きで洋風の窓をもったカトリック教会が竣工しました。

そして、同年のこの日、日本26聖殉教者に奉献する献堂式が行われ、日本26聖人教会と命名されました。Wikipediaから無断借用してきた下の写真は大浦天主堂の創建当初の姿です。写真またはそのしたの青文字からWikipediaの大きな写真が見られますよ。

<創建時の大浦天主堂>

 

この大浦天主堂、1875年(明治8)に大改築が行われ、外壁も当初の木造からレンガ造りとなり、また1945年〈昭和20)の長崎市への原爆投下の際も、爆心地から比較的離れていたため破損はしたものの焼失は免れました。1952年(昭和27)に戦後の修復も終わり、現在に至っています。

下の写真は現在の大浦天主堂です。

<現在の大浦天主堂>

 

大浦天主堂といえば、幕末期に浦上に潜伏していたキリシタンが名乗り出て、その後浦上崩れの発端となった場所でもあります。

肥前国浦上村(現・長崎市)で、近世後期から幕末期にかけて起こった4回のキリシタン露顕事件を「浦上崩れ」と呼びますが、その4回目に大浦天主堂が大きく関わっています。

1865年(元治2)2月に、この大浦天主堂を訪れた浦上の住人の中に、キリシタン禁制の世にあって潜伏していた信徒が居たのです。プティジャン神父は大層喜ばれ、その「信徒発見」の知らせは当時の教皇であったビオ9世のもとにも届けられ、「東洋の奇蹟」と呼んで感激した、ということです。

プティジャン神父は、その後も浦上のみならず周辺の居留地外の日本人に布教をしつつ、隠れキリシタンの発見に努めていました。それに対し、長崎奉行所は1867年(慶応3)秘密教会を襲撃して信徒を逮捕しましたが、フランスとの関係を考慮して信徒を帰村させ、事件は一件落着したかに見えました。

ところが、明治維新後、新政府が浦上一村総流罪を決定し、1870年(明治3)名古屋以西の20藩に3,384人を配流したため、欧米列強外交団の猛烈な抗議を受け、1873年(明治6)キリシタン禁制を取り下げ、信徒も開放したのでした。

日本のキリスト教信仰の自由化に大きな一歩を踏み出すきっかけとなった浦上崩れ、それはこの大浦天主堂から始まったのでした。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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