1月25日 <菅原道真が太宰権帥に左遷(901年=延喜元)>

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901年(昌泰4)のこの日、菅原道真(すがわらのみちざね)は藤原時平(ふじわらのときひら)との政争に敗れ、右大臣から太宰権帥(だざいのごんのそち)という地方官に左遷されることになりました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

菅原家は、もともと政治よりも学問で朝廷に仕える家柄でした。道真自身もそうした立ち位置で居ましたが、宇多天皇にその才能を見出され大抜擢を受け、893年(寛平5)には参議、899年(昌泰2)には右大臣になり権勢を振るっていました。

 

宇多天皇としては増長の一途をたどっている藤原氏の勢力を抑えるために道真を重用したのですが、時平としては

「大した名家の出でもない道真ごときが右大臣に…」

と快く思って居なかったのでした。

 

899年(昌泰2)の、道真の後ろ盾であった宇多上皇が出家されたことで、政界への影響力が弱まったのを機に、時平は打倒道真の秘策を巡らせます。

 

そして、901年(延喜元)、時平は道真を中央政界から追放する工作を醍醐天皇に対して開始しました。

「菅原道真が天皇を廃し、皇弟で自分の娘婿である斎世親王を立てようとたくらみ、既に法皇の同意を得ている…」

と讒言したのです。時平は巧みに年少の天皇の不安心を煽り、道真が陰謀を企てているかの様に思い込ませることにまんまと成功したのです。天皇は1月25日に詔を発して、道真の行動に非難をくわえ、これを貶して太宰権帥としたのでした。

 

この出来事のあと、2月1日に道真は護衛を付けられて太宰府への旅程につきました。任官していた子息たちも残らず左遷されて、それぞれに任地に下向しました。自宅には妻の宣来子(島田忠臣の女)と年長の女子を残して。道真の一家は離散を余儀なくされてしまいました。西へ向かう道真は

  • 東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
  • 君が住む宿の梢をゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや

 

というような悲しい気持ちを湛えた歌を幾つか詠んでいます。

 

その後、道真は太宰府で幽閉に等しいような生活を送りますが、老齢で病をもつ彼は失意のうちに2年後の903年(延喜3)2月25日に亡くなっています。その太宰府に居た頃に詠まれた歌をご紹介しましょう。

家を離れて三四月。

涙を落とす百千行。

万事皆夢の如し。

時々彼蒼(大空のこと)を仰ぐ。

(「菅家後草」より)

なんとも…打ちのめされ、しょげかえった人の姿が浮かんで来る歌ですねぇ。

 

さて、話はこれでは終わらなかったのです。

道真を放逐し権力の座についた人々を脅かす事件が次々と起きたのです。

その始まりは909年(延喜9)に藤原時平が39歳という若さで栄華への上りつめる途上で亡くなります。また、913年(延喜13)には、道真を失脚させる際に時平と共謀した右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺れて命を落としています。そして時平の強い後押しで皇太子の座につけられた保明親王(やすあきらしんのう)も923年(延喜23)の亡くなります。世間はこの不幸な出来事を道真の怨霊の仕業と思いました。

 

時の右大臣藤原忠平(ふじわらのただひら)は、亡皇太子の息子で3歳の慶頼王(よしよりおう)えおその後釜にすえました。そして元号を延長と改めました。その直後に、女御穏子(おんし)は天皇の第11皇子を生み、その子は寛明親王(ひろあきらしんのう)と名付けられました。その頃醍醐天皇は、詔を発して亡菅原道真を本官(右大臣)に復し、正二位を追贈してその亡魂を慰めようとしました。それは保明親王の死に大変なショックを受けたからでした。

 

ところが、その2年後の925年(延長3)には幼少の皇太子が亡くなってしまったのです。

 

まだまだ道真の怨霊は許してくれません。

 

930年(延長8)には、農繁期に入っても雨が降りませんでした。6月26日に、藤原忠平以下の公卿たちが殿上において雨乞いのことを議論していました。午三刻(午後1時ころ)、西方の愛宕山の上から黒雲が起こってあたりは真っ暗です。そして雷鳴が轟き清涼殿の西南の第一柱上に落雷し、多くの死傷者が発生しました。それを目撃した醍醐天皇も、またまた大きなショックを受け寝込んでしまいます。そして天皇はその春から都下に蔓延していた咳病を患い、この清涼殿落雷事件の3ヶ月後の9月に崩御されました。

 

清涼殿落雷事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられました。そして火雷神が祀られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとしました。ここに、天神信仰が生まれる起源がありますが、現在では、各地に祀られた「天神様」は、菅原道真が優れた学者・詩人であったことから、後に天神様は学問の神として信仰されるようになっています。

 

今日、1月25日は(正しく申せば毎月25日)は天神様の縁日です。賑やかな天神様ではありますが、この時期は受験を控えた学生さんは胸突き八丁といったところでラストスパートを掛けているところでしょうか。そうした皆様に天神様のご加護がありますように。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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