167年前のこの日、漂流してアメリカに渡っていたジョン万次郎ら5名の日本人は、小舟で琉球の摩文仁間切(まぶにまぎり)に上陸しました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
「ジョン万次郎」といっても、かつて庄やグループにあった居酒屋ではありませんよ。
ちなみに、日本史広辞典で確認しますと、ジョン万次郎は「中浜万次郎」に案内され、そこには
近世後期の漂流民・英学者
と書いてありました。
土佐国幡多郡中ノ浜にあった半農半漁の家の次男に生まれた万次郎が、漁に出て仲間とともに暴風に遭って遭難したのは1841年(天保12)、14歳の時でした。何と5日半の漂流のすえ、奇跡的に伊豆諸島の無人島の鳥島に漂着し143日間生活したのです。そこでアメリカ捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、アメリカに渡り学校教育を受けました。
捕鯨船やゴールドラッシュに沸く鉱山で働いたのち、1850年(嘉永3)12月に上海行きのアメリカ船籍の商船に、9年前にともに遭難した漁師仲間4人と共に乗り込み、帰途につきました。
翌1851年(嘉永4)のこの日、購入したおいた小舟「アドベンチャー号」で万次郎ら5人は琉球の摩文仁間切に上陸しました。
その当時、琉球は薩摩藩に服属しており、我が国は外交を極めて限定していたこともあり、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られました。その後、さらに薩摩藩での取調べを受け、万次郎らは今度は長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所等で長期間尋問を受けることになります。長崎では、あの「踏み絵」もさせられたようです。
そして、ようやく故郷の土佐に戻れたのは帰国してから1年半以上過ぎた1852年(嘉永5)10月、漂流から11年後のことでした。
土佐藩では、万次郎は中浜の姓を与えられて優遇され、士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命されています。坂本龍馬・後藤象二郎・岩崎弥太郎などは万次郎の教え子だそうですよ。
さらに翌1853年(嘉永6)にペリー艦隊が来航すると、英語のできる唯一の日本人として幕府に登用されています。その後、英語を武器に様々な活躍をしたジョン万次郎が日本に戻ってきた時の話でした。
2.過去年の記事
過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。
- 2016年記事:<「紅白歌合戦」放送開始(1951年=昭和26)>
今日はここまでです。
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