10月 出来事

10月1日 <豊臣秀吉の権勢を誇示した北野大茶湯(1587年=天正15)>

2016/10/12

今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の世界の出来事を覗いてみましょう。

 

1587年(天正15)のこの日、豊臣秀吉は京都北野天満宮で北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)と呼ばれる大茶会を催しました。

 

「茶の湯執心においては、若党・町人・百姓」でも貴賎を問わず、ありあわせの道具を持参して参集せよ、という秀吉の七か条の触書(ふれがき)に応じて自慢の茶道具を抱えた1,000人を超える多数の人々が、この日の朝から、京都の北野天満宮に集まってきました。これは現在の暦になおすと11月 1日にあたり、紅葉の色深まる天満宮境内には1,500余りの簡素な茶室が設けられ、趣向の茶が点じられました。また、秀吉自身も北野社殿に秀吉自身のほか千利休(せんのりきゅう)・津田宗及(つだそうきゅう)・今井宗久(いまいそうきゅう)の四つの茶室を設け、総勢803人に茶が供されました。

 

秀吉が、この北野の大茶会を催したのは、自らの権勢を天下に示すことと、自分の所有する名茶道具を披露したかったがためだったのです。

 

丁度その頃の、秀吉は、その前の数年で、まさに天下統一の大詰めまで上り詰めた時期で、絶頂期であったのです。その前後の数年を年表で振り返ってみましょう。

1582年(天正10):本能寺の変、信長没す
1582年(  10):山崎の合戦(明智光秀敗北し没)
1583年(  11):賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い、大阪城の築城に着手
1584年(  12):小牧・長久手の戦い
1585年(  13):根来(ねごろ)・雑賀(さいか)一揆(いっき)平定。関白となる
1585年(  13):四国平定(長宗我部氏服従)
1586年(  14):太政大臣となり、豊臣姓を与えられる
1587年(  15):九州平定(島津氏服従)。北野大茶湯 ← 今日の出来事はここ
1588年(  16):刀狩令。大阪城ほぼ完成
1590年(  18):小田原攻め(北条氏滅亡)
1590年(  18):奥羽平定

 

上記年表を補足します。

1582年(天正10)、秀吉は本能寺の変を知ると、対戦中の毛利氏と和睦し、山城の山崎の合戦で明智光秀を討ち、信長の法要を営むなどして、信長の後継者として一歩前にでました。翌年には信長の重臣柴田勝家を近江の賤ヶ岳の戦いに破り、ついで勝家にくみした織田信孝(信長の三男)をも自刃させて、信長の後継者としての地位を確立しました。ついで、1584年(天正12)、秀吉は尾張の小牧・長久手の戦いで織田信雄(おだのぶかつ:信長の次男)・徳川家康の軍と戦いましたが、戦局が膠着したため和睦しました。この頃から、秀吉は、軍事的征服のみに頼らず、強力な軍事力・経済力を背景に朝廷のもつ伝統的な支配権を積極的に利用するようになっていきました。

1585(天正13)には、秀吉は前年の小牧・長久手の戦いの際に、徳川方に味方した紀州の根来衆と雑賀一揆を滅ぼし。ついで朝廷から関白に任じられました、同年長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を下して四国を平定し、翌1586年には豊臣の姓を与えられました。関白になった秀吉は、、天皇より日本全国の支配権を委ねられたと称し、惣無事(全国の平和)を呼びかけ、互いに争っていた戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の裁定に任せることを強制しました。これを惣無事令といいます。

この惣無事令は、その後、秀吉が全国を平定する際の錦の御旗となりました。1587年(天正15)には、この命令に従わず、九州の大半を勢力下においた島津義久(しまづよしひさ)を征討し降伏させました。茶会が行われたのは、この時期だったのです。

 

この茶会は、当初は10日間の予定でしたが、肥後の国人が領主の佐々成政(さっさなりまさ)に反抗して一揆を起こした為に、この1日で打ち切りになりました。予定は短縮されたものの、秀吉の欲求は、このたった1日でも十分に満たされたことでしょう。

 

この北野大茶湯の興行記録とでもいうべき資料が現存しており、その名を「北野大茶湯記(きたのおおちゃのゆき)」と言います。作者は不明で、「茶道古典全集」に所収されています。

 

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