10月11日 <山口良忠判事、餓死(1947年=昭和22)>

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1947年(昭和22)のこの日、第二次世界大戦後の食糧難のなかで、闇米を拒否した東京地裁の山口良忠判事は、栄養失調で亡くなりました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

第二次世界大戦の敗戦後、以下の理由で日本国内の食糧事情は劣悪になっていました。

  • 国内の農業生産が落ち込んでいたこと
  • 満州・朝鮮・台湾といった食料の供給源を失ったこと
  • 外地からの引揚者によって人口が増加したこと

国民の食料には、食糧管理法に基づく配給物資がありましたが、質量ともに十分とはいえず、人々は買い出しに行き、闇市などで入手しかない状況が続いていました。

 

ところが、今日ご紹介する山口良忠判事は、当時、東京地裁で食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していました。

その闇取引を裁く法の番人として、山口判事は自らが闇米を食べていてはいけないのではないかという思いに至ったのです。

 

そうして、1946年(昭和21)10月初頃から闇米を拒否するようになったそうです。配給のほとんどを2人の子供に与え、自分は妻と共にほとんど汁だけの粥などをすすって生活したのでした。

近親者の援助すら固辞した山口判事は、イモを栽培して食生活を改善する努力をしましたが、遂に1947年(昭和22)8月27日に地裁の階段で倒れ、1947年(昭和22)の今日、栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核)のため、この世をさりました。享年33歳でした。

 

Wikipediaにその山口良忠判事が妻矩子に語っていた思いがありますので、以下に引用します。

人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない。闇にかかわっている曇りが少しでも自分にあったならば、自信がもてないだろう。これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい。

(Wikipedia「山口良忠」から引用)

 

法を守る番人としての覚悟が語られた言葉に強く感じられます。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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