10月7日 <頼三樹三郎、小塚原で刑死(1859年=安政6)>

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1859年(安政6)のこの日、安政の大獄で捕らえられた儒学者頼山陽の子頼三樹三郎が小塚原の刑場で斬刑に処されました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

アメリカの初代駐日総領事のハリスから通商条約への調印を迫られ、江戸幕府大老井伊直弼は勅許を得られないまま1858年(安政5)6月、日米修好通商条約に調印しました。

 

また、その少し前から、江戸幕府では第13代将軍徳川家定の継嗣問題が起きていて、「年長・英明」な将軍擁立を掲げて徳川斉昭の子で一橋家の徳川慶喜を推す一橋派と、幼年ではあるものの血統の近い紀伊藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ、後の徳川家茂)を推す南紀派が対立していました。

 

1858年(安政5)4月、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任すると、上述しましたように勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するとともに、一橋派を押し切って徳川慶福を将軍の継嗣に定めるとともに一橋派有司を左遷しました。

この通商条約への調印は、開港を好まない孝明天皇の怒りを買い、反対派から違勅調印であるとして幕府への激しい避難と攻撃とを生みました。

 

井伊直弼は、この2つの強硬処理後、徳川斉昭・徳川慶喜・松平慶永らを蟄居・謹慎処分し、条約調印に激怒した孝明天皇の上京命令を無視しました。京都では反幕勢力が増大し、志士が集結しました。これに対し、井伊は志士の逮捕・投獄を中心とする大弾圧を行ったのです。これが安政の大獄と呼ばれる弾圧です。

 

この安政の大獄によって捕らえられた尊攘派志士の中に頼三樹三郎が居ました。

頼三樹三郎は、京都生まれで、儒学者の頼山陽の三男です。1840年(天保11)以降大坂・江戸に遊学し、さらに蝦夷地を旅行して1849年(嘉永2)帰京。そして家塾を開き多くの志士と交わったのです。1855年(安政2)母が他界したのち、尊攘運動に奔走し、梁川星巌(やながわせいがん)・梅田雲浜(うめだうんびん)らと親しくなったのです。

将軍継嗣問題では一橋派に与して、公卿間に入説するなど活動したため、江戸幕府から危険人物としてみなされていました。1858年(安政5)の大獄で捕らえられ、翌年江戸に檻送されました。

そして1859年(安政6)のこの日、頼三樹三郎は橋本左内・飯泉喜内らとともに小塚原の刑場で斬刑に処されました。

 

Wikipediaに頼三樹三郎の画がありましたので、例の如く無断借用してきました。画像またはその下の青文字をクリックするとWikipediaの大きな画像が見られます。

<頼三樹三郎(『近世文武英雄伝』(大蘇芳年(月岡芳年)画)>
(Wikipedia「頼三樹三郎」から無断借用)

 

この安政の大獄で処罰を受けたものは100名を超え、この厳しい弾圧に憤激した浪士たちが、1860年(万延元)に桜田門外の変を起こします。その結果、幕府の専制的な政治によって事態に対処しようとする路線は行き詰まり、結果的に幕府の威信が大きく揺らぎ弱体化していくことになりました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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