9月20日 <道鏡を大臣禅師とする(764年=天平宝字8)>

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764年(天平宝字8)のこの日、看病禅師(かんびょうぜんじ)だった道鏡が、孝謙女帝の信任をもって、前代未聞の大臣禅師(だいじんぜんじ)となりました。

これは奈良時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

天平宝字(てんぴょうほうじ)8年のこの日、看病禅師(かんびょうぜんじ)だった道鏡が、孝謙女帝の信任をもって、前代未聞の大臣禅師(だいじんぜんじ)となりました。看病禅師とは、医療行為や呪術をも行える僧侶として朝廷に仕えた者に対する呼称です。

 

道鏡は、河内国弓削(ゆげ)郷の出身とされ、生年不詳で、俗姓弓削氏です、義淵(ぎえん)に師事し、サンスクリットの経典研究を行い、修行に打ち込んで法相を学び、梵文(ぼんぶん)にも通じていました。意のままに願い事をかなえるという「如意輪法(にょいりんぼう)」の法力を身につけてから、朝廷の内道場に入り看病禅師となりました。梵文とは梵語すなわちサンスクリット語で書かれた経文のことです。

 

当時、孝謙女帝は譲位して淳仁天皇(じゅんにんてんのう)が即位していましたが、道鏡はたくみに孝謙上皇に取り入り、761年(天平宝字5)に病気がちであった上皇の看病に功があったとして寵愛を得たのです。そのころから孝謙女帝と道鏡とは男女の関係にあったとされ、道鏡はその後、763年(天平宝字7)少僧都、そして764年(天平宝字8)年の今日大臣禅師へと昇格しました。

 

淳仁天皇を擁立する藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)と対立して勝利を納めた道鏡は、764年10月、淳仁天皇を淡路に配流し、先帝(孝謙上皇のこと)をふたたび天皇の座にすえ称徳天皇(しょうとくてんのう)にしました。そして自分は大臣として政治をとり、翌765年(天平神護元:てんぴょうじんご)には太政大臣禅師、766年(天平神護2)には法王になって天皇に准ずる待遇を受け、権力を握り、仏教政治に腕をふるったのでした。

 

769年(神護景雲3:じんごけいうん)には、称徳天皇の意向も受けて、ついに道鏡を皇位につけようとする事件も起きました。九州の宇佐八幡神が「道鏡を皇位につけたら天下は太平となる」と告げたとする道鏡即位への動きは、神意を聞く使いとなった和気清麻呂(わけのきよまろ)の道鏡即位に反対する報告によって頓挫しました。その清麻呂の報告の背景には、藤原式家の藤原百川(ふじわらももかわ)ら道鏡に反対する貴族たちの動きが在ったのです。

 

770年(宝亀元)に称徳天皇が死去すると、天皇の寵愛にしか政治的基盤がなかった道鏡は、一気にその地位を失い、下野薬師寺の別当として追放され、773年(宝亀3)、同地で没しました。

 

お硬い話はこのくらいにして、道鏡といえば有名なのは巨根伝説です。特に江戸時代には、女帝と道鏡との関係の事を「道鏡は、巨根をもって女帝に仕えた。」といって揶揄したそうです。川柳でも

「道鏡は座ると膝がみっつでき」
「道鏡に根まで入れろと詔」
「道鏡は人間にてはよもあらじ」
「道鏡に崩御崩御と称徳言い」

といったものが有名です。この巨根説は、道鏡の並外れた栄達をねたんだ者たちの作り話であるとされていますが、その真実は日本史の闇の中にあるようです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

  • 2017年記事:
  • 2018年記事:

 

今日はここまでです。

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