10月24日 <神風連の乱発生(1876年=明治9)>

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1876年(明治9)のこの日、神風連(じんぷうれん。敬神党とも)に結集していた170余名の熊本士族が蜂起し、熊本鎮台を襲いました。同年3月の廃刀令に対する不満が引き金となった士族の反乱でした。

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

明治新政府はあらゆる分野に対してあまりにも急速な近代化政策を推し進めたこともあり、その変化は国民の実情を無視したものでした。そのため、国民に大きな生活の変化を強いる事も少なくありませんでした。

農民たちの間では地租改正にともなう税負担だけでなく、徴兵制度による兵役の義務や小学校設置の際の経済的負担に不満をもち大規模な農民一揆が起こっていまいsた。

不満を抱いていたのは農民ばかりではありませんでした。

 

廃藩置県・徴兵制度・秩禄処分(ちつろくしょぶん)などの改革により、封建的諸特権を次々と奪われた士族たちの間でも、政府への不満が高まっていました。

明治6年の政変の際、征韓論に与した板垣退助をはじめとする旧参議の多くは、1874年(明治7)に民撰議院設立の建白書を提出しました。その中の一人、江藤新平は郷里の佐賀に帰って、同年、不平士族に擁立され征韓党の首領となって反乱を起こしました。佐賀の乱です。この反乱を武力によって鎮圧した政府は、取り締まりを一層強化しました。

そうして翌1875年(明治8)には、反政府的言論活動をおさえるため、讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例が発布されました。

この佐賀の乱については、拙Blogの別項で記事があります。あわせてご笑覧下さい。

→ 3月29日 <元参議江藤新平、逮捕される。佐賀の乱(1874年=明治7)>

 

ついで、1876年(昭和9)の廃刀令の公布・俸禄の停止をきっかけに、各地で士族の反乱が起きました。

同年のこの日に起こったのが、神風連(敬神党)の乱でした。この神風連の呼び名は、敬神党が元寇の時の神風の故事を強調したことによります。

肥後勤王党保守派の流れを汲む敬神党は、国学者林桜園(はやしおうえん)の神道に心酔し、国粋保存を主張して政府の欧化主義政策(近代化政策)を激しく非難し、秋月や萩の不平士族とも気脈を通じていました。

1876年(明治9)3月に廃刀令が公布されると、それを「国体を損なう」ものとして、同年のこの日、敬神党の太田黒伴雄(おおたぐろともお)ら170名が蜂起し、熊本鎮台司令官種田政明と熊本県令安岡良亮を亡きものにして熊本鎮台を一時占拠したのです。

乱そのものは翌日鎮圧されて、党員の多くは戦死あるいは自刃しました。

この神風連の乱は、その後に続く秋月の乱、萩の乱の引き金となった事件でした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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