10月16日 <藤原道長、望月の歌を詠む(1018年=寛仁2)>

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1018年(寛仁2)のこの日、藤原道長は娘の威子が後一条天皇の中宮となった事を祝う宴で、同夜の十六夜の月にたとえて我が身の栄華を詠いました。

 

1018年(寛仁2)10月に、藤原道長は女の威子(いし)を後一条天皇の中宮とします。この時点で後一条天皇。後朱雀天皇を産んだ女の彰子(しょうし)は太皇太后に、皇子を生みませんでしたが女の妍子(けんし)は皇太后に、そしてこの度の威子で一家三后を実現し、藤原道長の外戚としての地位は盤石のものでした。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

2016年(平成28)10月16日、これは今日ですね。今夜拝める月は満月です。昨夜も素晴らしい月でした。今夜の天気はどうでしょうねぇ、空模様は下り坂ということですが…。

ちなみに、今年(2016年)の中秋の名月は9月15日でした。ところが、9月の満月は9月17日だったのですね。中秋の名月の当日が満月ではない事は良くあるみたいです。ブックオフの9月の店内放送で、女性のパーソナリティが「今年の中秋の名月は9月15日…」といったら、それに対応して男性のパーソナリティは「それは満月…」とやっていましたが、あれは実は大変な間違いでした。

 

さて、今日の話は平安時代に十六夜の月を見て、藤原道長が詠んだ歌の話です。

 

平安時代の9世紀半ばから、11世紀半ば頃まで、国政は摂政・関白のもとで運営されていて、この政治を摂関政治といいます。藤原家は天皇の母親の身内であること、いわゆる外戚としての位置づけを保つことで、摂政・関白の地位を保ち続けたのです。その摂関政治と呼ばれる時代は858年(天安2)の藤原良房(ふじわらのよしふさ)に始まり、1094年(嘉保元)の藤原師実(ふじわらのもろざね)によって幕を閉じます。それ以降は、摂政・関白が置かれていても上皇が実権を握った院政の時代へと移って行くのです。

 

1018年(寛仁2)10月に、藤原道長は女の威子(いし)を後一条天皇の中宮とします。この時点で後一条天皇。後朱雀天皇を産んだ女の彰子(しょうし)は太皇太后に、皇子を生みませんでしたが女の妍子(けんし)は皇太后に、そしてこの度の威子で一家三后を実現し、藤原道長の外戚としての地位は盤石のものでした。

 

そして、同年の今日、10月16日は十六夜の月でした。その日が丁度威子が皇后に立った日にあたるため、道長はその祝宴で、十六夜の月にたとえて

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の、かけたることもなしと思へば (大意:この世は自分のためにあるようなものだ。満月の欠けたことがないように)」

とその栄華を詠ったのでした。

 

ここまでの歌を詠んだ道長でしたが、この時すでに糖尿病に侵されており、翌年には出家し、法名行観(のちに行覚)となります。そして、法成寺(ほうしょうじ)の建立を行います。この寺は御堂とよばれ、道長の別称「御堂関白」はここに由来するものです。

 

道長の生涯は、この歌を境に徐々に衰退期に入ったと見るのが一般的で、やはり欠けない月はなかったのですねぇ。そういった意味で、満月より十四番目の月を喜ぶ、というのも一理あるかもしれません。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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