1931年(昭和6)のこの日、軍人内閣樹立のクーデターを計画していた桜会の橋本欣五郎中佐らが検挙され、計画は未遂に終わりました。
これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
1930年代に入ると、ロンドン軍縮問題・満蒙問題の切迫・農村の疲弊といった内外の危機に触発され、日本国内では革新の気運が高まり、軍部の青年将校や民間の右翼・国家主義団体による急進的な国家改造運動が活発になりました。
彼らは、元老・政党・財閥などの支配層が国家の危機と国民の窮状をよそに、私利私欲・党利党略にふけっているものとして、これらの支配者たちを直接の実力行動によって排除・打倒しようと計画するようになりました。
そして1931年(昭和6)3月には急進的な国家改造を目指す陸軍の秘密結社「桜会」の将校と民間の国家主義者たちが、無産政党をも動員し、政党内閣を打倒して軍部政権樹立を図ろうとするクーデターを計画する事件が起きました。いわゆる三月事件です。
そののち、満州事変が勃発すると、若槻内閣は事変不拡大を目指しました。その一方で、国民の軍部への期待が高まる中で、国家主義者の動きがさらに活発化していったのです。
桜会の橋本欣五郎中佐ら参謀本部勤務の幕僚、隊付の青年将校と民間の右翼大川周明・井上日召・橘孝三郎の一党が参画し、
クーデターにより政権を奪取して独裁制を布き政治変革を行う
ことを計画したのです。橋本は関東軍とも連絡し、事務局長・次官ら軍上層部の黙認も得ていました。
在京師団からの一部兵力の動員、陸軍戸山学校生の尉官たちの抜刀隊、航空機(13機)の参加も予定され、若槻首相・閣僚の斬殺、警視庁の占拠などの後、荒木貞夫教育総監部本部長を首相として目的を達成するとしていました。
しかし、1931年(昭和6)10月16日の夜、荒木は橋本・長勇少佐ら中心人物を説得して、同年のこの日、憲兵隊によって橋本らが検挙され、事件は未遂に終わりました。
しかし、この事件の政財界に与えた衝撃は大きく、軍部に政治的進出のきっかけとなりました。
橋本ら13名は軽い処罰を受けましたが、このなかから大東亜戦争時の軍司令官や師団長が、青年将校から二・二六事件の参加者が出ています。ある意味、軽い処罰で済ませたことが後世に禍根を残すことになったとも言えましょう。
2.他の年、この日の記事
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