10月19日 <越後騒動に初の幕府採決(1679年=延宝7)>

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1679年(延宝7)のこの日、越後国高田藩松平家のお家騒動に対して、江戸幕府が裁決を出しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

越後騒動とは、江戸時代前記、越後国高田藩松平家に起こったお家騒動のことです。

 

1679年(延宝7)藩主松平光長(まつだいらみつなが)の娘婿小栗美作(おぐりみまさか)が藩政の実権を握り、地方知行制を廃止し、新役金による増税策を展開したのです。そこで反対派の家老荻田主馬(おぎたしゅめ)は、藩主の血縁者である永見大蔵(ながみおおくら)を担ぎ出して反美作派を結成し対立して、さらに継嗣問題もからんで幕府に訴え出ました。

そして、同年の今日、幕府が本件に対し初の裁決を出しました。その内容は

「反小栗美作派を非とし、永見大蔵・荻田主馬らを他家預かりとする」

というものでした。

 

しかし、1681年(天和元)、増税に苦しむ領民が諸国巡見使に訴訟し、家老2人も脱藩を願ったため、再び幕府評決となりました。江戸幕府第5代将軍となった徳川綱吉が、新政権の門出として同年6月21日に取り上げて親裁しました。

その結果、以下の様な厳しい裁定が下され、高田藩は改易されました。

  1. 小栗は切腹
  2. 弟の兵庫・重蔵らは伊豆大島に流刑
  3. 永見大蔵・荻田種目らは八丈島に流刑
  4. 藩主松平光長は改易され伊予国松山藩松平氏預かり
  5. 一族の播磨国姫路藩主松平直矩は転封
  6. 一族の出雲国広瀬藩主松平近栄は減封

 

この裁決によって改易された高田藩主の松平光長は、その後罪を許されました。

廃嫡でお家断絶の危機に瀕しましたが、様々な紆余曲折を経て、徳川御三家の一つである常陸国水戸藩の徳川光圀の口利きにより越前松平家一門の松平直矩から宣富を養子として受け入れ、お家は存続しました。

1698年(元禄11)には、その宣富が美作国津山藩10万石に封じられ、幕末まで津山藩主松平家として存続したのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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