10月2日 <上杉禅秀、鎌倉府を襲う(1416年=応永23)>

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1416年(応永23)のこの日、鎌倉公方足利持氏に不平をもっていた前関東管領上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう、上杉氏憲)が反乱を起こし、鎌倉府を襲いました。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1416年(応永23)のこの日、前関東管領の犬懸上杉家の上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏・関東管領山内上杉家の上杉憲基(うえすぎのりもと)に対して反乱を起こしました。

上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)は、上総・武蔵両国の守護で犬懸(いぬかけ)上杉家の上杉氏憲(うえすぎうじのり)という武将が出家した後の名前です。この上杉家は、南北朝以来、扇谷(おおぎがやつ)・詫間(たくま)・犬懸(いぬかけ)・山内(やまのうち)の四流に分かれ、室町期は特に犬懸上杉家の禅秀と山内上杉家の憲基とが競い合っていました。

 

1415年(応永22)4月、鎌倉公方足利持氏が犬懸上杉家の被官・越幡六郎の不出仕を理由に所領を没収する事件が起き、これを不満として同年5月2日に禅秀が関東管領を辞職してしまいました。。すると同月18日に足利持氏は犬懸上杉家の対立勢力である山内上杉家の憲基を後任の管領としたため、禅秀は持氏・憲基に対する反感を強め、ついに謀叛として具現化していったのです。

 

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ここで、鎌倉公方について少し説明をしておきましょう。室町幕府は、幕府の地方機関として鎌倉府やいくつかの探題をおきましたが、そのなかでも鎌倉幕府のあった関東を特に重視し、義詮の弟の基氏に鎌倉府を開かせました。鎌倉府では関東8ヵ国と伊豆・甲斐を加えた10ヵ国を支配していました。鎌倉府の首長は鎌倉公方と呼ばれ、基氏の子孫が世襲し、そして政務を統括して公方を補佐するのが関東管領でした。
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禅秀は、持氏に反感を抱く持氏の叔父にあたる足利満隆と、満隆の養子で持氏の弟である足利持仲を擁して同志を募りました。その呼びかけに応じたのは禅秀の子・婿・舅ら、それに陸奥・常陸・信濃・上野・武蔵・相模・下野・伊豆および鎌倉の広範囲の在地武士でした。

1416年(応永23)のこの日、満隆・禅秀らは持氏邸に夜襲を掛け、持氏は憲基邸に逃走し、ここに内乱が勃発しました。

同月4日両軍対峙。6日憲基邸炎上、持氏・憲基らは小田原に敗走。7日持氏は駿河に、憲基は越後に行き、乱の緒戦は鎌倉を制圧下に置いた禅秀側の勝利となりました。

 

この上杉禅秀の乱、最終的には幕府側に鎮圧されてしまいます。その話は、また別稿で、ということにしましょう。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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