1873年(明治6)のこの日、大久保派の岩倉具視が西郷隆盛・板垣退助らの朝鮮に対する強硬意見に反対の意見書を上奏し、ここに征韓論は潰え去ったのでした。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
江戸時代末期以来、朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒否していました
そのため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬方針をもって臨むべきだとする征韓論が高まりました。
政府部内でも西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)・江藤新平(えとうしんぺい)・副島種臣(そえじまたねおみ)らの参議が征韓論を唱え、1873年(明治6)8月には、西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣して交渉にあたらせ、国交要求が入れられなければ、兵力を送り、武力に訴えても朝鮮の開国を実現させるという方針を内定しました。
この征韓論は同時に、明治新政府に強い不満をいだき、朝鮮への積極的進出に期待をかけ、それを望んでいる士族層をなだめ、彼らの矛先を海外に向けさせるためでもありました。
しかし、1873年(明治6)年9月、岩倉具視(いわくらともみ)一行が帰国すると、欧米先進列強の著しい発展をみてきた大久保利通(おおくぼとしみち)・木戸孝充(きどたかよし)らはあくまで内治の整備が先決であるとして征韓論に強く反対したのです。
西郷隆盛派と大久保利通派の対立のなかに立った太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)は心労のあまり病気となり、代わりに岩倉具視が代理となりました。
大久保派の岩倉は、1873年(明治6)10月の今日、西郷らの唱える意見に反対の意見書を上奏し、結局、初めの方針は取り消され、征韓論は敗北したのでした。
それを受けて西郷ら征韓派の参議はいっせいに辞職してしまいました。これを明治6年の政変と呼んでいます。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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