1095年(嘉保2)のこの日、延暦寺(えんりゃくじ)の山法師たちが日吉神社(ひえじんじゃ)の神輿(しんよ:おみこしの事)を担いで初めて京都に入りました。朝廷に強訴(ごうそ)したのです。
これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
強訴は嗷訴ともいいます。これは、僧徒・神人が集団で武器を持ち、鎮守神を押し立てて朝廷や幕府に力により訴え要求することを言います。平安時代中期に始まり院政期に活発になりました。1093年の春日社の神木をかざした興福寺の強訴と、今日ご紹介する日吉社の神輿を担いで入洛した延暦寺の強訴とが有名です。その他にも、平安時代に百姓たちが領主のもとへ全員で押しかけて、年貢の減免を要求したりしたのは列参強訴と呼ばれています。更に、時代は下り江戸時代の百姓一揆の形態として強訴がありますが、それはまた別の機会での話にしましょう。
寺社の僧徒が要求を掲げて大挙入洛するのは、この出来事以前から時々あったことで、例を挙げれば
- 943年(天暦3)、別当(べっとう:寺院運営の最高責任者のこと)に不満をもった東大寺の法師5-60人が、これを訴える為に入京
- 981年(天元4)、関白藤原忠平の建てた法性寺(ほっしょうじ)の座主に園城寺(おんじょうじ)の長吏余慶(よけい)が任命されたことに反対して延暦寺の僧綱をはじめ200余人が関白藤原頼忠の邸に行き、乱暴をはたらいた
- 1039年(長暦3)、園城寺の僧明尊(めいそん)が天台座主に任ぜられたのを不満とした延暦寺派の僧徒約3000人が、京都の祇陀林寺(ぎだりんじ)に集合し、関白藤原頼通の邸に迫った
などがあります。
今回の出来事の発端は、延暦寺の僧徒が、延暦寺の寺領のある美濃国に行って悪行を働く事が多かったので、当時美濃守であった源義綱(みなもとのよしつな)は朝廷に訴えて調査して貰いました。朝廷が延暦寺にたずねたところ、延暦寺は「そんな悪僧に本寺は関知せず…」と答えました。それならば、その悪僧を捕らえよ!ということになり、義綱は詔を奉じて捕らえようと軍兵をさしむけたところ、合戦におよんだ結果、数人の僧侶が亡くなってしまったのです。
延暦寺では、まさか自分の寺の僧徒が捕らえられることはあるまい…とたかをくくっていたにちがいありません。ところが相手が悪すぎました。何と言っても猛者源義家の弟の義綱です。容赦なく軍兵をということになってしまったのですから…。僧徒が命を落とした事を知った延暦寺は、前言をひるがえして「亡くなったのは、実はわが寺の僧徒であった!」と怒ってきたのです。
そして、「美濃守の源義綱が延暦寺の僧徒を亡き者にしたので義綱を流罪にしてほしい!」と要求して、上記したように1095年(嘉保2)の今日、日枝神社の神輿を奉じて強訴におよんだのです。
朝廷側は、この事の経緯がわかっていたので、ときの関白藤原師通(ふじわらのもろみち)は武士に命じてこの強訴を防がせ、神輿にはばかることなく矢を放たせて僧徒数名がまた命を落としたという具合に、断固とした態度で要求を退けました。こうした強訴は、今回の様に失敗することもあれば、要求が通ることもありました。僧徒たちはこの後も、度々強訴しました。あまりにも強訴が相次いだので、白河法皇は
「賀茂川の水と山法師と賽の目はままならぬ…」
といって大層お嘆きになられたそうです。
そうそう、今回ご紹介した話で後日談があるのです。
断固とした対応を指示した関白藤原師通ですが、この4年後に36歳の若さで病により亡くなってしまいますが、それはこの出来事の時の祟であると噂され、そして、この時の実行犯(?)源頼治(みなもとのよりはる)は佐渡に流された、ということです。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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