8月2日 <シベリア出兵を宣言(1918年=大正7)>

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1918年(大正7)のこの日、寺内正毅内閣は、前年に起こったロシア革命への干渉戦争としてシベリア出兵を宣言しました。

これは大正時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

ロシアでは、日露戦争中から皇帝の圧政に反抗する気運が高まり、1905年(明治38)10月に第一次革命が起こりました、翌1906年(明治39)には憲法が制定され国会が開かれたものの、まだまだロシア国内の革命運動は衰えませんでした。そうしたなか、第一次世界大戦によって激しいインフレが進んだことによって労働者・農民の生活が圧迫され、ロシア情勢は非常に不安定になったのです。

1917年(大正6)3月、ロシアの首都ペトログラード(現・サンクト・ペテルブルグ)で労働者のゼネストが発生し、鎮圧に出動した軍隊もこれに同調してしまい、再び革命に発展し、ついに帝政は倒れ、自由主義者を中心とする臨時政府が成立しました。これがロシア二月革命と呼ばれる出来事です。

革命はさらに展開を見せ、同年11月には、レーニンらを指導者とする社会民主労働党のボリシェヴィキ派が武装蜂起し、臨時政府を倒して社会革命党左派とともに、世界初の社会主義政権であるソヴィエト政府を樹立しました。いわゆる十月革命です。

ソヴィエト政府は、対外的には翌1918年(大正7)3月に、ドイツ・オーストリア両国と単独にブレスト・リトフスク条約(平和条約)を結び、連合国っ陣営から離脱し、また体内的にはボリシェヴィキ派が武力により議会を解散し、社会革命党など反対派を弾圧して、一党独裁体制を確立していきました。

 

 

第一次世界大戦の連合国側は、このロシア革命の影響が広がったり、あるいはドイツの勢力がロシア国内に大きく広がるのを危惧しました。

1918年(大正7)1月、イギリスは日本とともに居留民保護の目的でウラジオストクに軍艦を派遣し、さらにアメリカが、ロシアの革命軍によってシベリアに追い詰められた連合国側に属するチェコスロバキア軍を救出するという名目で、日米共同派兵を持ちかけてきたのです。

これに対し、寺内正毅内閣は同年のこの日、ロシア革命の干渉戦争としてシベリア出兵を宣言しました。

 

そうして同月12日に日本軍が、19日にはアメリカ軍がウラジオストクに上陸を開始しました。

ところが、アメリカが日米同数の7,000人派兵を主張したのに対し、日本は3ヶ月間に73,000人余りを派兵したため協調は困難となり、1920年(大正9)1月にはアメリカが出兵の打ち切ることを通告してきました。

日本は、居留民保護、革命の波及防止に目的を変更し、その後も駐留を続けましたが、なんら成果を挙げることなく、1922年(大正11)10月に北樺太を除き撤退し、1925年(大正14)日ソ基本条約調印後に北樺太からも撤退しました。

このシベリア出兵によって、日本軍は3,000人にも及ぶ死者を出し、また戦費10億円をつぎ込んだものの、ほとんど得るものがなかったのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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