10月25日 <常磐津節が始まる(1747年=延享4)>

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1747年(延享4)のこの日、江戸にいた高弟の宮古路文字太夫が常磐津文字太夫と改名して常磐津節を興しました。

これは、江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

浄瑠璃一派である宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の豊後節が1739年(元文4)に江戸幕府から禁止された…という話は10月7日の記事に書きましたが、今日はその続編とでもいうべき内容です。

10月7日の記事はこちら → https://nihonshi.info/10月7日 <上方の豊後節が、江戸で上演禁止とな/

 

宮古路豊後掾は1736年(元文元)に始まり1739年(元文4)に上演禁止となった豊後節弾圧を受け、翌年には帰京してしまいましたが、その高弟はまだ江戸に残っていて以下の様に豊後三流と呼ばれる新しい流派を起こして行きました。

 

  • 宮古路文字太夫 : 常磐津文字太夫と改名 → 常磐津節
  • 常磐津小文字太夫(宮古路文字太夫の弟弟子。常磐津が出来た時。行動をともにした) : 独立して富本豊志太夫と改名 → 富本節
  • 富本斎宮太夫(富本節の二世) : 独立して清元延寿太夫と改名 → 清元節

 

今回の記事は、上記三流派の一番上に書いたもので、1747年(延享4)のこの日、江戸にいた高弟の宮古路文字太夫が常磐津文字太夫と改名して常磐津節を興しました、というものです。

 

常磐津節は初期の頃、「常盤津節」と表記したこともあったそうです。その表記が変わった経緯についてWikipediaに興味深い記事がありましたので、以下に引用します。

元文5年に豊後掾が病死すると、延享2年(1745)に宮古路加賀太夫が脱退(新内節)、宮古路園八(宮園節)なども脱退し分派活動が起こる。高弟である宮古路文字太夫も、延享4年(1747)に関東文字太夫と改名したが、北町奉行により禁止され、その帰り際に住居がある日本橋檜物町に常盤橋を渡って戻る途中、師である豊後掾の本名「石津左司馬」の津を取り常盤津としたという説が有力である。後日、「皿」では割れてしまい縁起が良くないので「石」に変更され、現在では「常磐津」と明記するのが正しい。(Wikipedia 常磐津節より引用)

上手いこと験(げん)を担ぐものだなぁ、と感心しました。

 

さて、この常磐津節とは…、歌舞伎の付随音楽の一つです。中棹(ちゅうざお)三味線を使い、三味線二人、浄瑠璃三人の二挺三枚を原則とします。中棹三味線とは三味線の一種で、棹の部分の太さにより数種類あり代表的なものとしては太棹・中棹・細棹に大別されるそうです。二挺三枚という構成は伴奏が二挺の三味線で、語りが三人ということです。現在でも常磐津姓、そして三味線方の岸澤姓が受け継がれています。常磐津家元は現在第十七世で、岸澤家元は第十一世が2013年3月に亡くなられています。

 

演奏について、小生は余り語るべき物をもっていないので、調べ物をした結果を以下にまとめます。

「浄瑠璃の発声は自然で、言葉の自然な抑揚を重視し、清元節に比べて語りの性格が強い。一曲のなかでのテンポはほぼ一定しているが、曲の終結の部分で急激にテンポを早くする傾向がある。その為、情緒的な新内節ともちがって劇的ともいえる。そのため、歌舞伎の所作事と結びついて発展し、今日に至っている。旋律法には義太夫節の影響も多い。」

 

この常磐津節は歌舞伎興行では現在でもその活動に触れることが出来ます。ご興味のある方は、300年近い芸の歴史に接してみられてはいかがでしょうか。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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