11月10日 <朝鮮総督府が創氏改名に関する制令を公布(1939年=昭和14)>

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1939年(昭和14)のこの日、朝鮮総督府は制令20号「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件」を公布し、朝鮮人固有の姓を廃止して日本式の名前を名乗らせる「創氏改名」政策を行いました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1937年(昭和12)7月7日夜半から8日早朝にかけて、北京郊外盧溝橋付近で日本軍と中国軍とが武力衝突を起こしました。現地の日中両軍の間では停戦協定が成立しましたが、この盧溝橋事件の報告を受けた近衛内閣は、当初は事件不拡大の方針を取りながら、陸軍部内や政府部内の強硬派の意見に押され、強硬な方針に転換しました。政党や言論機関などもこれを支持しました。そして、陸軍は華北での軍事介入を拡大し、日本は中国と全面戦争に突入したのです。これが日中戦争です。

 

戦時下となって、日本の植民地であった朝鮮や台湾では、日本語教育とその使用が一層強化されるなど、「皇民化」政策が推し進められました。その一環で1939年(昭和14)のこの日、朝鮮総督府は制令20号「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件」を公布し、朝鮮人固有の姓を廃止して日本式の名前を名乗らせる「創氏改名」政策を行いました。これは「内鮮一体」を提唱していた南次郎朝鮮総督の「皇国臣民」化政策の一つでした。

 

(以下の画像は、上段に今回ご紹介した制令について記されている、1939年11月10日の朝鮮総督府官報で、Wikipediaにあったものです。)

gazette_of_government-general_of_korea_1939-11-10_page_1-1
(Wikipediaから引用。元画像はこちら→https://ja.wikipedia.org/wiki/創氏改名#/media/File:Gazette_of_Government-General_of_Korea,_1939-11-10,_page_1.png

 

この制令は翌1940年(昭和15)2月施行され、同年8月までに新しい氏名を届けさせるというものでした。その期限内に全戸数の80%の届け出が行われました。

 

(以下の画像は「創氏」に関する公告で、Wikipediaにあったものです。)

japanese_name_change_bulletin_of_taikyu_court
(Wikipediaから引用。元画像はこちら→https://ja.wikipedia.org/wiki/創氏改名#/media/File:Japanese_Name_Change_Bulletin_of_Taikyu_Court.jpg

 

この政策について「強制」か「非強制」であったか議論があるようですが、小生は半ば強制だあったと考えています。その理由は、改名しない者には

  • 公的機関に採用しない
  • 食料の配布対象から除外する

といった圧力が掛けられていたからです。

 

この制令は、第二次世界大戦後、朝鮮半島南部では1946年10月の朝鮮姓名復旧令(軍政庁法令122号)により、戸籍に掲載された創氏改名を遡及無効とされ、戸籍上の日本名が抹消されました。朝鮮半島北部でも同様の法的措置がとられ、朝鮮人の日本名はわずか6年ほどで戸籍から消滅することになりました。

 

こうした「皇民化」政策はその他に

  • 神社参拝の強要
  • 「皇国臣民ノ誓詞」の制定
  • 日本語の強制

といったものがあり、時期は前後しますが、その政策推進の為に1938年(昭和13)7月には国民精神総動員朝鮮連盟が発足していました。

ま、早い話、悪いことしていたんですよ、日本人は。

勿論、こんな物言いに反論される方は多数いらっしゃいますが、小生は、「上記の見解でなければ大学受験は受からないのですよ。」という立場で情報を発信するので、現状ではこの通りです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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