11月20日 <室町幕府が土倉・酒屋を支配(1393年=明徳4)>

スポンサーリンク

1393年(明徳4)のこの日、高利貸で多額の利益を上げていた土倉・酒屋に対して、土倉役(どそうやく)酒屋役(さかややく)というあらたな税金を設け、政所の年中行事の費用として毎年6,000貫を納める事を命じました。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
広告


スポンサーリンク
スポンサーリンク

1.解説

 

室町幕府の財政は、貨幣経済の浸透を前提として、銭貨の徴収によってまかなわれました。定期的な財源としては御料所からの年貢米がありましたが、その他には、必要に応じての不定期な課税が行われていました。まず、守護・地頭にさまざまな名目で税が課せられました。

 

京都周辺の交通の要所には関所が設けられ、関銭(せきせん)津料(つりょう)が課せられました。関銭は陸上交通の要地にもうけた関所で徴収したもので、人のほか荷物にも課しました。海上交通での課税の場合は津料と呼ばれました。

 

また、幕府の保護下で広く金融活動を展開していた禅宗の寺院にも課税されました。幕府の援助を得た禅宗寺院は、膨大な荘園を保持し、豊かな経済力を誇っていました。幕府は住持(じゅうじ)の資格取得、将軍参詣時の献納など、折に触れて禅院から税を徴収していました。

 

日明貿易による莫大な利益も幕府の重要な財源でした。明からもたらされた生糸などは20倍で売れたそうで、その利益は大きかったのです。大名や商人に派船を任せる場合でも貨物総額の1割を徴収しました。そのたった1割でも3000〜4000貫にもなったそうです。この一貫という貨幣価値は現在の貨幣でいえば10〜15万円だったそうなので、派船1回で税収5,000万円位だったのでしょう。

 

内裏の造営・皇位継承儀式の執行など国家的な行事の際には、守護を通じて段銭(たんせん)が賦課されることがありました。段銭とは、荘園・公領を問わず一国平均に田地一段ごとに掛けられる税で、家屋一棟ごとに課せられる棟別銭(むなべつせん)も臨時で課税されました。

 

1393年(明徳4)のこの日、上記の税金とは別の、あらたな税金が課せられることになりました。それは土倉役(どそうやく)酒屋役(さかややく)です。土倉役は倉役とも呼ばれます。

 

その時代、京都市内には多くの土倉や酒屋がありました。それらは月利3〜4%の高利貸を営んでおり、市民などに金を貸して多額の利益を得ていたのです。これらの土倉は本来比叡山の支配下にありましたが、幕府は土倉のあげる利益に目をつけ、1393年(明徳4)の今日、土倉を幕府の直轄とし、政所の年中行事の費用として毎年6000貫を納める事を命じました。この税は有力土倉からなる納銭方一衆(のうせんかたいっしゅう)を通じて幕府に納められ、幕府にとって主要な財源となりました。

また、一方の酒屋役は京都・奈良の本酒屋である醸造酒屋に課せられたもので「洛中辺土散財土倉並酒屋役条々」で寺社などの特権を否定して幕府に収入源として確立しました。これは酒壺ごとに課され、毎月幕府に納入されました。徴収はこちらもまた納銭方一衆が行いました。

 

こうした諸税が強化された背景には、御料所と呼ばれる幕府の所領の税収にたいする重要度の変化があります。室町幕府の御料所は、鎌倉幕府でいえば関東御領にあたり、南北朝の動乱期に入手した、足利氏が相伝した土地ですが、鎌倉幕府と比較すると、数量的にかなり少なく、現在のところ200箇所くらいしか見つかっていません。その為、これらの土地から得られる年貢は、それ相応に少ないものでしかなかったのでした。だからこそ、新たな財源が必要だったのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

広告



こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
↓↓↓
スポンサーリンク
スポンサーリンク
11月出来事
スポンサーリンク
シェアする
wpmasterをフォローする

コメント

Translate »
error: Content is protected !!