11月23日 <朝鮮人参座を創設(1763年=宝暦13)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1716年(亨保元)に江戸幕府の第7代将軍家継(いえつぐ)が8歳で亡くなり、家康以来の宗家(本家)が途絶え、三家の一つである紀伊藩主の徳川吉宗(とくがわよしむね)が8代将軍になりました。吉宗は、家康のひこ孫にあたりますが、30年近くの将軍在職の間

「諸事権現様(徳川家康)御掟の通り」

と言って家康時代への復古を掲げて幕政の改革に努めました。これを亨保の改革と呼んでいます。様々な施策のなかに、厳しい倹約令を出して支出の減少を図るとともに、収入の増加策が打ち出されました。具体的には新田開発、年貢の増徴、商品作物の奨励などです。どの様な商品作物の栽培が奨励されたか、と申しますと菜種(なたね)、甘藷(かんしょ)さとうきび、櫨(はぜ)、朝鮮人参などでした。

 

朝鮮人参は、古くからその根が強壮剤として珍重されましたが、江戸時代前期までは中国からの輸入に頼っていました。輸入量は大量であったため、決裁のための銀の海外流出の主な原因となっており、それが幕府にとっても頭の痛い問題でした。そんな背景もあって、享保の改革で栽培を奨励したのです。まず清国商人を通して対馬国府中藩と長崎のルートから種を入手し、佐渡と日光にあった官営薬園で試植を行い成功し、その後諸藩にも殖産興業策として栽培を計画させ、それが全国に普及していくことになったのです。

 

8代将軍吉宗のあと、9代家重(いえしげ)、10代家治(いえはる)の時代になりますと、側用人(そばようにん)を兼ね老中となった田沼意次(たぬまおきつぐ)が幕政の実権を握り、極めて強い権勢をふるいました。この時代を田沼時代と呼んでいます。

 

意次は、亨保の改革以降、各地で発展しつつあった特産物をはじめとする商品生産や流通、そしてそれらが生み出す富に注目し、それを幕府財源に取り込もうとしました。意次は、田村元雄(たむらげんゆう)のような学者を民間から抜擢し、これに官医に準ずる待遇を与え、その指導のもとに朝鮮人参の採集を行いました。朝鮮人参の薬としての効用は、品質を見分ける事が困難だったのですが、一般に珍重されるだけに、余り品質の良くないものでも高価に取引される事があったそうなのです、だからこそ、田村元雄のようなすぐれた本草学者の指導が必要だったのです。

 

田沼意次は、この朝鮮人参の専売機関の整備も進め、一手に売りさばかせる様にしたのです。

 

江戸幕府は1763年(宝暦13)の今日、江戸の神田紺屋町三丁目の岡田治助の願いを入れ、同人宅に朝鮮人参座を開設することを許可しました。人参座の扱う人参は上人参・並人参・肉折人参・細髪人参・刻人参などに分かれ、上・並人参には刻印を押すなど、品質の管理は厳重だったそうです。国産朝鮮人参も輸入物と効能に差が無いとして、多くの薬種屋を下売り人に指定し、値段も安くして、その普及にのりだしていったのでした。この朝鮮人参座がスタートするにあたり、広東から輸入されていた人参の売買を禁じ、長崎に於いてこれを焼き捨てさせたそうです。

 

今日はここまでです。

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