12月1日 <空海「三教指帰」を著す(797年=延暦16)>

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797年(延暦16)のこの日、空海(くうかい)は「三教指帰(さんごうしいき)」を著しました。

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

空海は真言宗の開祖です。真言宗は、平安時代に新たに唐から伝えられた仏教でした。その仏教の流れについてさらりと触れておきますね。

 

奈良時代の後半に仏教が政治に深く介入して、行き過ぎた仏教中心政策がとられたという前例を嫌い、桓武天皇は遷都に伴って奈良の大寺院を長岡京・平安京に移転することを認めませんでした。その一方で、最澄(さいちょう)や空海らによって伝えられた密教である天台宗・真言宗に対しては、従来の仏教とは異なる新しい仏教を指向する仏教界の動きとして支持したのです。

 

仏教界の有望な新人として重要な人物であった空海ですが、その経歴は少し変わっています。生まれたのは774年(宝亀5)で、生地は讃岐国多度郡屏風浦(びょうぶがうら)です。父親は佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)で、この地方の名望家だったそうです。母親は阿刀氏で、東宮学士であった母方のおじ大足(おおたり)のすすめもあって、真魚(まうお:空海の幼名)は788年(延暦7)に長岡京にのぼり、はじめはこのおじについて学問の道に入りました。791年(延暦10)に、真魚は官人へのコースを目指して、まず大学明経(みょうきょう)の科試に合格し、博士岡田牛養(おかだのうしかい)・味酒浄成(うまさけのきよなり)らから教えを受けました。

 

ところが、この791年に大きな転機が訪れます。その年、ある僧から仏門に入る道を示され、真魚は、それまでの学業をなげうって都を去り、修行の度に出たのです。真魚は阿波国の大滝岳や土佐国の室戸岬といった場所で修行に励み、797年(延暦16)の今日、「聾瞽指帰(ろうこしいき)→後に三教指帰と改題」という一篇を著しました。これは、いかに釈(仏教)が老(道教)や孔(儒教)に優越するかを書いたものでした。これは、仏門への「宣誓書」である、と評されています。

 

この三教指帰では、、序でみずからの出家を本書執筆の動機を述べ、本文では儒・道・仏の3教を代表する亀毛先生・虚亡隠士・仮名乞児に各々の教えを語らせ、仏教の卓越を高らかに宣揚する、というもので戯曲風の体裁を取っているのが特長です。

 

空海はその後、804年(延暦23)に遣唐使に従い入唐し修行を重ね、806年(大同元)に帰朝します。そして真言宗の基盤を築いていくのですが、その話はまた別項にしましょう。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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