12月14日 <平清盛の娘・徳子が入内(1171年=承安元)>

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846年前のこの日、平清盛は娘の徳子を高倉天皇のもとに入内させました。徳子はその後、安徳天皇を生み、建礼門院となる女性です。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

平徳子は平清盛の次女です。

清盛は、娘の徳子に高倉天皇の皇子を産ませ、その子を天皇とすることで自らは外戚としてさらなる権勢を振るう野望がありました。「愚管抄」には清盛の望みを次の様に記されています。

「帝ノ外祖ニテ世ヲ皆思フサマニトリテント」

(「愚管抄」より)

 

そして、1171年(承安元)のこの日、清盛は徳子を高倉天皇に入内させました。その後、女御となり、翌1172年(承安2)中宮に立てられ、1178年(治承2)に安徳天皇となる皇子を産みました。

 

ところで、この徳子、生まれは平氏なので、皇后や中宮になるべき家柄ではありません。そこで、入内させるに当たって、形式上は後白河法皇の養女という身分にしたのです。なぜ、そのような裏技がまかり通ったのでしょうか?

それには、朝廷と平氏とが手を取り合う背景があったからなんですねぇ。

後白河法皇もまた、政治基盤の強化のためには清盛の協力が不可欠だったのです。朝廷と平氏、この両者の対立を回避し、高倉天皇の治世を安定させたいと願う建春門院(平滋子、後白河法皇の寵妃、高倉天皇の生母)の意向が大きく反映したと考えられています。

 

もちろん、このような適切な身分を持たない者を法皇の猶子としたうえで入内させることに対して疑問を唱えるものもいました。「玉葉」には次のようにあります。

 

「かの例頗る相叶はざる由、世以てこれを傾く」

(「『玉葉』11月28日条」から)

 

とまぁ異論もありながら入内た徳子はその後波乱の人生を送ることになりますが、それはまた何れの日にか…

 

テレビで平徳子といえば、先年の大河ドラマ「平清盛」で初々しい演技を見せた二階堂ふみ女史が思い出されますね。NHKから画像を無断拝借してきました。

<二階堂ふみ演じる平徳子>

<二階堂ふみ演じる平徳子>

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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