8月28日 <大老堀田正俊、殿中にて刺殺される(1684年=貞享元)>

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1684年(貞享元)のこの日、江戸城本丸の御用部屋の近くで、大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に斬られました。正俊は深手を負い、すぐに自邸に運ばれましたが帰らぬ人となりました。襲った正休は、その場で討たれ、息絶えました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

堀田正俊は、なかなか興味深い経歴の持ち主です。

1634年(寛永11)に、老中堀田正盛の三男として生まれ、翌1635年(寛永12)に徳川家光の乳母春日局の養子となります。春日局は正俊の父の堀田正盛の義理の外祖母にあたり、すなわち春日局は正俊にとっては義理の曾祖母ということになるのですね。

1641年(寛永18)には、第3代将軍徳川家光の嫡男(のちの徳川家綱)の小姓、1660年(万治3)に奏者番、1670年(寛文10)に若年寄、1679年(延宝7)に老中となりました。

1680年(延宝8)に第4代将軍徳川家綱が死去すると、徳川綱吉の将軍擁立につくし、綱吉の厚い信任を受け財政専管を命じられました。そして1681年(天和元)に下総国古河藩主となって、遂に大老に上り詰めたのです。

 

正俊は譜代大名の改易・減封や世襲的代官の大量処分など、綱吉の初政である「天和の治」を補佐しました。その武断的な政治は幕臣の反感を呼び、1684年(貞享元)のこの日、江戸城中で、父正盛の従弟(正俊の従叔父)の若年寄、美濃青野藩主・稲葉正休に江戸城内で刺殺されてしまいました。

正休もその場で、老中大久保忠朝らに殺害されてしまい、正俊殺害の理由は

  • 異例の昇進を遂げて、奢る正俊を正休が諌めて討った
  • 正俊は厳格な人物で、正休が権力を振るおうとしていたのを正俊に抑えられて、恨んだ

など諸説ありますが真実は不明です。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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