12月 出来事

12月19日 <長崎で26聖人が殉教(1596年=慶長元)>

今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1596年の今日、長崎で6人の宣教師と20人の日本人キリスト教徒とが十字架に掛けられて処刑されました。

 

豊臣秀吉は、初めはキリスト教の布教を認めていましたが、次第に秀吉のつくりあげようとした国家体制にキリスト教が妨げになると考えるようになりました。

 

1587年(天正15)、島津氏征討のため九州に赴いた秀吉は、キリシタン大名の大村純忠が長崎のイエズス会の教会に寄付している事などを知り、まず大名らのキリスト教入信を許可制にしました。このとき秀吉は、キリシタン大名の中心的存在であった播磨国明石城主高山右近(たかやまうこん)に棄教を迫りましたが、拒否したため、その領地を没収してしまいました。これはキリシタン大名の増加と彼らの連携とを警戒した秀吉による一種のみせしめでありましたが、一般人の信仰は「その者の心次第」として禁じませんでした。

 

ところがこの直後、1587年(天正15)に、秀吉は突然バテレン(宣教師のこと)追放令を出して宣教師の国外追放を指令しました。宣教師が神社仏閣を破壊しているというのが直接の理由でした。

 

キリスト教と南蛮貿易とを分離できると考えた秀吉は、ポルトガル船や商人の来航は従来通り認める方針を維持しました。さらに京都・堺・長崎・博多の豪商らの東アジア諸国への渡航を保護するなど、南方貿易を奨励しました。このような貿易の奨励は、結果的にキリスト教の取締りを不徹底なものにしました。

 

バテレン追放令を発布したものの、貿易の利からキリシタンの取締りを徹底しなかったため、多くのイエズス会の宣教師たちらは国内に潜伏しひそかに布教を続けていました。さらに1592年(文禄元)にはフィリ ピン総督から遣わされた託鉢修道会員(フランシスコ会員)が外交交渉のために来日するようになりました。彼らは自分たちには布教活動が許されているものと誤解して、長崎・大坂・京都などて教会を設け公然と布教活動を始めました。こうして、キリスト教はなお各地に広がっていきました。

 

ところが1596年(慶長元)の秋、スペイン船サン・フェリペ号が土佐に漂着したとき、その乗組員は、積荷を没収された事を憤り、世界地図を拡げながらスペイン国王はキリスト教の布教を手段として世界各地を征服したという意味のことを放言したのでしたサン=フェリペ号事件)。奉行からこの報告を聞いた秀吉は、直ちに京坂にいたスペイン系のフランシスコ会員とその日本人関係者、およびイエズス会の修道士をふくむ日本人関係者とを捕え、長崎に拘引し西坂の丘て磔刑に処しました(26聖人殉教)。

 

この背景には、日本への布教のため進出したスペイン系のフランシスコ会とイエズス会との対立がありましたが、この事件は日本の支配者層の間にキリスト教に対する警戒心を植えつけることになったのでした。

 

この出来事を受けて、フィリピン総督は抗議の使節を日本に派遣しましたが秀吉の弁明書を受け取るにとどまりました。フランシスコ会のペドロ =バプティスタら6名とイエズス会の三木パウロら3名の修道士、および日本人信徒17名は1862年(文久2)にローマ法王によって聖人の位に列せられ、日本26聖人として広く景仰されています。

 

なお、日本のキリスト教弾圧の記事は、高山右近が国外追放になった際のものもあるので、併せてご一読頂ければ幸いです。直後にリンクを貼り付けておきます。→10月6日 <高山右近らが国外に追放されました(1614年=慶長19)>

 

今日はここまでです。

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