1970年(昭和45)のこの日に未明、沖縄・コザ市で米憲兵隊(MP)の交通事故処理から市民とMPとが対立。群衆は5,000人にまで膨れ上がり、米人乗用車など73第、米人学校3棟への放火など大規模な反米行動に拡大しました。
これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
今回の記事は1972年(昭和47)に沖縄が日本に返還される前の出来事です。
第2次世界大戦に日本が敗戦したあとに結ばれた講和条約で、沖縄は米国の施政権のもとに置かれることになりました。
1950年(昭和25)6月に起こった朝鮮戦争、そして1960年(昭和35)12月に起こったベトナム戦争、更には1950年代〜1960年代にかけての東西冷戦という環境の中で、沖縄の位置付けは大きく変わって行きました。それは東南アジア地域における戦争の後方支援基地として、あるいはソ連や中国、北朝鮮などの東側諸国に対する抑止力としての軍事基地と変貌して行ったのです。
米国は沖縄県各地に基地や施設を力ずくで建設し、また米軍兵士による事故・事件が頻発し県民の死傷者も相次いだという状況が続き、沖縄県民の米軍に対する不信感そして、常日頃からべ軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に差別されていたことに対する不満が大きくなっていたのです。
1970年(昭和45)のこの日の午前1時過ぎ、コザ市で道路を横断しようとした沖縄の方(酒気帯び)が、酒気帯び米軍人(キャンプ桑江所属)の運転する乗用車にはねられる事故が発生しました。
その現場に、米憲兵隊車両(MPカー)5台と琉球警察パトカー1台とが出動し、負傷者の病院搬送と現場検証、加害者の事情聴取を行っていました。その間に、現場に隣接する地元住民が集まり始めたのです。群衆はこの時点で数百人に達し、騒ぎ始めました。
その後、午前2時過ぎ、群衆の走路妨害に遭った米軍人運転の乗用車と、沖縄の方が運転する車とが追突する事故が起きると、集まった群衆は投石、MPカーを横転させ、放火するなど一気に暴徒化していきました。
実は、この出来事に少し前に、糸満市で交通事故を起こして主婦の命を奪った米兵に軍事法廷が無罪判決を下したということもあり、群衆は
「糸満の二の舞いを繰り返すな」
と憤ったことが背景にありました。
最終的に群衆は5,000人にまで膨れ上がり、MPカーを含む米軍人車両など73台、米人学校3棟への放火、米国人を含む88人が負傷するなど大規模な騒動に発展しました。
琉球警察は宣伝カーにより鎮静化・帰宅を呼びかけ、当日午前7時半頃までに暴動は自然収束しました。
この出来事は政治的な組織の指導によるものではなく自然発生的であったことが特徴的で、沖縄住民の米軍に対する不信感、そして常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄住民が不当に差別されていたことに対する不満が爆発したといえましょう。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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