12月19日 <憲政擁護大会開催(1912年=大正元)>

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1912年(大正元)のこの日、桂太郎内閣打倒のために東京、歌舞伎座で政友党・国民党主催の憲政擁護大会が開かれました。

これは大正時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

憲政擁護運動は大正初期と末期とに起こった、藩閥官僚の専横を打破し、憲政を擁護(確立)しようとする政治運動です。第一次と第二次に分けて呼ぶこともありますが、第一次を憲政擁護運動、第二次を護憲運動と呼ぶ場合もあります。

今日の記事は第一次憲政擁護運動についてです。

 

1911年(明治44)8月に成立した第二次西園寺内閣は財政難であったため行政財政整理を最大の政策として国民の要望にこたえようとしていました。ところが、陸軍はこれを怠ったどころか、極東の国際情勢をうけて二個師団の増設を要求したのです。

 

1912年(明治45)7月、明治天皇の崩御を契機に民主的政治を要望する「大正維新」の声が起こっていました。国民の間には新しい政治への期待が高まっていたこともあり、陸軍や藩閥の横暴を避難し反増設の世論はたかっていました。

1912年(大正元)11月22日に東京商業会議所が閣僚訪問・陳情を開始すると各地の会議所がこれを応援し、軍事研究会・増師反対同盟会・国防議会・立憲政友会地方支部も起ち上がりました。

内閣が増師要求を拒絶すると、同年12月2日には上原勇作陸相は辞職し、陸軍は後任を出さなかったために同月5日に内閣は総辞職しました。

 

この政変については内閣陰謀説と閣僚派倒閣説とがあります。

前者は内閣が行政財政整理に行き詰まり、増師にかこつけて辞職し、大衆の怒りを陸軍・官僚派に向けようとする陰謀と見る説で、後者は整理が成功すると西園寺内閣が世論の支持を得て政党内閣に一歩前進するので、官僚派が増師の難問をつきつけて、財政整理の失敗か倒閣かに持ち込もうとしたとする説です。現在は後者が通説とされています。

 

この総辞職は主義に殉じたものとして世論の支持を得て、陸軍への風当たりは厳しくなりました。

同年12月6日から後継首班推薦の元老会議が開かれましたが、この難局を担当する者がなく、難航のすえ内大臣桂太郎が14日に出馬を受諾し、17日にそれが正式決定しました。ところが宮中から府中に出る不都合をとりつくろうため、17日に勅語が発せられ、また海軍充実の確約を求めて海軍が海軍が海相推薦を躊躇すると、21日斎藤実海相留任の勅語が出されて、同日第三次桂太郎内閣は成立しました。

 

ところが、この桂内閣の成立過程は世論の大きな怒りを買ってしまったのです。

まず、12月7日に政友会有志約60名が有志懇談会を開き、翌8日同会院外団幹事会、9日同会関東倶楽部同志大懇談会、13日憲政作振会結成(18日第1会演説会)に続き、慶應義塾出身者のサロンである交詢社の炉辺談話から14日には護憲運動の中核となった憲政擁護会が結成されました。

そして1912年(大正元)のこの日、東京・歌舞伎座で憲政擁護大会が開かれて、憲政擁護運動は大いに盛り上がりました。

有名な宣言の

閥族の横暴跋扈、今や其極に達し、憲政の危険目睫の間に迫る。吾人は断乎妥協を排して、閥族政治を根絶し、以て憲政を擁護せんことを期す

が読み上げられ「閥族打破、憲政擁護」のスローガンは全国を風靡しました。

そして各地で盛んに憲政擁護大会が開催され、未曾有の盛況を示しました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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