12月29日 <松平家康、徳川氏と改姓(1566年=永禄9)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1566年(永禄9)の今日、松平家康は、松平氏を改めて徳川氏と称し、さらに朝廷から徙五位下三河守(じゅうごいのげみかわのかみ)の官位を与えられました。

 

家康は、三河一国を領有する大名となった今、他の諸大名と肩を並べ、権威を誇示するためにも官位が必要だったのです。

 

しかし、朝廷から官位を受けるには由緒が要るのです。松平という姓は由緒が無かったのでした。時の天皇、正親町(おおぎまち)天皇も家康の、三河国領有の正当性を裏付けるために徙五位下三河守の官位叙任を…との奏請に対し「先例のないことで公家には出来ない」と一度は拒否しました。

 

そこで家康は三河誓願寺(せいがんじ)の僧慶深(けいしん)がたまたま近衛家と親しかったのを幸いに、慶深を通じて時の関白近衛前久(このえさきひさ)に対し、毎年馬一匹と銭300貫をあげるという条件で、しかるべく勅許になる様に頼みました。また同じく慶深によって神祇官吉田兼右(よしだかねすけ)にも良馬を贈るという条件で頼み込みました。

 

経済的に窮乏をきわめていた公家は、喜んで武士の申込みに飛びついたのは言うまでもありません。

 

しかし家康の祖先に国守に任ぜられた者があるという先例は、簡単に作れるものではありません。ようやく吉田兼右は万里心路家(までのこうじけ)の古い記録の中に一つの系図を見つけ出したといって、これを写して近衛前久に見せたのでした。それは徳川という家の系図で、はじめは源氏でしたが、途中で藤原氏に変わった、というものでした。

 

この系図は公家のどの家の系図にもなく、吉田兼右がたんに書いてきたものなので、極めて怪しげなものなのですが、これを清書させ、まことしやかに系図らしい体裁をととのえて天皇に提出し、勅許を得たのでした。

 

こうして松平家康は、もと源氏で今は藤原氏となっている徳川という名字を称することとなり、それによって官位も許されたのでした。

 

こうした系図買いとか偽系図作りは、戦国時代から近世初期にかけて、諸大名・豪族などの間の流行を見せたのです。なぜかれらが古い系図を求めたかというと、以下の2点にまとめられます。

  1. かれらが少し勢力をもってくると、自分は単なる成り上がり者ではなく、遠く祖先をたずねれば、 源氏や平氏などの立派な家系連綿としているのだという事を誇示したがった為。
  2. かれらは天下なり一地域なりを支配する正当性の根拠を系図のうえから主張したかった為。

 

例えば、織田信長も1564年(永禄7)の頃までは藤原氏を称しており、それがやがて平氏に変わっています。これは、天下の権を源平交代でとるという当時の思想に基づくもので、源氏→北条氏(平氏)→足利氏(源氏)→織田信長(天下をとる積りで平氏)という感じで平氏を称したものと考えられています。

 

豊臣秀吉も、最初は平氏を称していたそうです。

 

今日はここまでです。

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