176年前のこの日、人情本の人気作家の為永春水は、出版統制を受けて書籍印刷用の板木を没収されてしまいました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
江戸時代には、幕府によって風俗の取締がしばしば行われました。出版統制令もそうした施策の1つで、江戸幕府第11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)の時代に老中松平定信(まつだいらさだのぶ)が断行した寛政の改革や、第12代将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)の時代に老中水野忠邦(みずのただくに)を中心に行った天保の改革に大きな出版統制が行われました。
寛政の改革で、通を描く洒落本が弾圧されると、そこから派生して人情本が生まれてきました。
この分野の代表的な作家であった為永春水が自作に対して「人情本」の名称を用いたところから、この名前で呼ばれるようになりました。女性をおもな読者として想定し、書かれた恋愛小説であるところに大きな特徴があります。現代で言えばハーレクイン・ロマンスのシリーズみたいなものでしょうか…。
為永春水は、呉服商のかたわら、出版にも携わり、また講釈も行うというマルチな才能を発揮して、この人情本では「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」が大ベストセラーとなり、この分野の第一人者として人気を博していました、そして、門弟たちと為永連を組織して合作方式を確立して、殺到する注文をこなしていました。
ところが、このころ天保の改革を推し進めていた幕府にとっては、この人情本の流行は面白くありませんでした。幕府は勧善懲悪の筋立ての物語をヨシとしていたんですねぇ。
そして、幕府は、すべての書籍を検閲し、幕府に不都合な書物を取り締まるとともに、風俗に悪影響を与える書物として人情本作者の為永春水らを処罰したのです。
1841年(天保12)のこの日、人情本の内容が淫らであるとして、為永春水は人情本の印刷用板木を没収され、そして翌年、手鎖50日の刑を受けてしまいました。
この際の取り調べは、あの遠山の金さんこと北町奉行遠山景元だったのですよ。
この処罰を受けた後の為永春水、とても可哀想…Wikipediaに次の様に記載されています。
それを苦に深酒して強度の神経症となり、1843年(天保14年)の暮れに没した。享年54。
(Wikipedia「為永春水」から引用)
この天保の改革の出版統制により、その後、人情本は衰退していきました。
2.過去年の記事
過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。
- 2016年記事:<松平家康、徳川氏と改姓(1566年=永禄9)>
今日はここまでです。
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