1908年(明治41)のこの日、鉄道局と帝国鉄道庁を統合し、内閣の直属機関である内閣鉄道院が新設されました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
鉄道事業は、1872年(明治5)のスタートにしましたが、その前年の1871年(明治4)9月21日、開業前の試運転の際に列車に試乗した大久保利通(おおくぼとしみち)は日記に次のように書いています。
「始て(はじめて)蒸気車に乗候処(のりそうろうところ)、事実に百聞一見(ひゃくぶんいっけん)にしかず。この便を起さずんば、必ず国を起すこと能はざるねし」
このように、鉄道の敷設が国の繁栄のためには必要不可欠であることを、大久保利通は一発で認識したのでした。
そして1872年(明治5)のスタートから鉄道は順調な伸びをみせていました。1889年(明治22)、官営による東海道線(新橋-神戸間)が全線開通し、1892年(明治25)には鉄道敷設法が制定されて、全国幹線網の計画が立てられました。
また、民営の鉄道も華族の金禄公債(きんろくこうさい:明治時代に発行された長期国債)を主たる資本として、1881年(明治14)に日本鉄道会社が設立され、同年上野-青森間全線開通したのをはじめとして、1880年代後半の私鉄ブームの結果、早くも1889年(明治22)には営業キロ数では民営が官営を上回り、山陽鉄道・九州鉄道など幹線の建設が進み、日清戦争後には本州の両端である青森-下関間が鉄道によって結ばれました。
おおまかな営業キロ数でいえば、下記のように民営が官営を大きく上回って伸びて行きましたが、経営の統合と軍事輸送の便という経済的・軍事的な観点から、政府は1906年(明治39)に鉄道国有法を公布し、日本鉄道・山陽鉄道・九州鉄道など17社(営業キロにして4,500km)の私鉄を買収し、全国の主要な幹線はすべて国有鉄道となりました。
- 1872年(明治5):スタート
- 1887年(明治20):約1,000km(官500、民500)
- 1892年(明治25):約3,000km(官800、民2200)
- 1897年(明治30):約5,000km(官1,000、民4,000)
- 1902年(明治35):約7,000km(官2,000、民5,000)
- 1907年(明治40):約8,000km(官7,000、民1,000)
この鉄道事業を管轄する官庁は何度か変更を受けています。
- 1871年(明治4):スタートは工部省
- 1885年(明治18):工部省廃止に伴い内閣直属
- 1890年(明治23):内務省外局の鉄道庁
- 1892年(明治25):逓信省外局
- 1893年(明治26):逓信省の内局化され逓信省鉄道局
- 1897年(明治30):同局の現業部門のみが逓信省外局の鉄道作業局→1907年(明治40)に帝国鉄道庁に改組
このように、所轄官庁の相次ぐ変更、監督組織と現業組織の分離により、鉄道行政が混乱していましたが、1906年(明治39)の鉄道国有化をきっかけに鉄道に関する行政機関を独立させる計画が持ち上がりました。
そして、1908年(明治41)のこの日、鉄道局と帝国鉄道庁を統合した内閣鉄道院を新設し、再び内閣の直属機関としました。この鉄道院は、国有鉄道の会計を取扱い、同時にその経営・建築などを扱いました。初代総裁は後藤新平(ごとうしんぺい)でした。
鉄道スタートの日の記事は別項があります。こちらの記事も併せてご笑覧下さい。
→9月12日 <新橋・横浜間に鉄道が走る(1872年=明治5)>
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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